「再建は進んでる?必ず行くからね。身体に気を付けて、頑張ってね」志村けんの優しさと気遣いに救われる
いまも国民の心に生き続ける人気者
はにかみながら旅館に入ってくる志村けん。その姿はテレビ番組で見せる賑やかなイメ ージとは対極で、決して目立つことはなかった。 令和二(二〇二〇)年三月二十九日。新型コロナウイルスによる肺炎のため、志村けん が亡くなったニュースは日本中を震 しん 撼かん させた。いまも国民の心に生きる志村けんは、二〇 年にもわたり、毎年、お正月に福井県あわら温泉「べにや」を訪れた。
志村けんの定宿「べにや」は、明治十七(一八八四)年創業。手入れが行き届いた三〇 〇〇平米の日本庭園を囲む二階建ての建築物は、国の登録有形文化財に指定されていた。 その風情ともてなしは志村けんだけでなく、多くのお客をとりこにし、北陸の名旅館とし て名を馳せた。 それが平成三十(二〇一八)年五月五日昼、火災が起きた─ ─。 火元は二階の宴会場の屋根裏。漏電ではなく、小動物が配線をかじり、火花が飛んだの ではないかとされている。この日は、西から強い風が吹き上げ、火をあおり、東西方向に 建つ宿を燃やしていった。 「ただ燃えていく建物を見守るしかなかったです。炎の勢いがすごく、こんなに燃えてしまうのかというぐらいの全焼でした」と女将の奥村智 とも 代 よ さんが思い出す。 幸い、人的被害はなかったが、残ったのは庭と「べにや」の看板、「べにや」シンボル の椎 しい の木、別の場所に所蔵していた調度品のみだった。 「べにや」の火災は旅館業の皆が胸を痛めたし、本当に再建できるのかと心配した。 旅館はただの建物ではない。 お客とともに育み、磨き上げてきた魂が宿る。その建物を一日にして失う。それも、心 の準備もなく。どれほどの大きな喪失感だっただろう。 「どうしよう… …という迷いもありました。ただ火災が起こった日は偶然にも昭和三十一 (一九五六)年の芦 あわら 原大火後に『べにや』を再建した祖父の命日でしたし、祖父からの 『がんばれ』というメッセージではないかと受け止め、同じ場所で旅館をやりたいと決意 しました」と当時の心情を話す奥村隆 たか 司し 社長。 さらに奥村社長と女将の背中を押した要因が二つある。 まず温泉の源泉。奥村社長は「源泉は使えるままの状態で残りました。あぁ、源泉があ ればもう一度、この場所でまた宿ができると決意を強くしました」。 次に「べにや」を愛したお客の声だった。 「二〇〇〇通ものお便りが届きました。私どもの宿をこんなにも愛していただいていたの かと、驚きました」と女将はうっすら涙を浮かべた。
その無数の励ましの声のひとつが志村けんからの一本の電話だった。志村けんは毎年 「べにや」に宿泊していたが、帰る時に翌年の予約を入れていたので、これまで一度も電話をしてくることはなかった。 志村けんが初めて「べにや」に電話をかけてきたのは令和元(二〇一九)年十一月十八日。 「どう? 再建は進んでる? 必ず一番最初に行くからね。お正月を待たずに行くからね。 身体に気を付けて、頑張ってね」 短い電話だったが、再建にさまざまな不安を抱えていた奥村社長と女将の心に届いた。 新型コロナの影響で建材が入手しにくくなり、新たな壁が立ちはだかるも、強い思いで突き進んでいく。
※この記事は2024年6月5日発売された自著『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』から抜粋し転載しています。