亡き星野さんがいたら… 愛弟子の韓国コーチ復帰への葛藤
今年、韓国KBOリーグに1人の日本人コーチが2年ぶりに復帰する。現役時代、中日で捕手としてプレーし、引退後は指導者として中日、東北楽天、東京ヤクルト、韓国ではSKワイバーンズ、サムスンライオンズでバッテリーコーチを歴任した芹澤裕二氏(50)だ。
韓国球界は捕手の人材難が深刻で、その改善のためバッテリーコーチに日本人を招くことが少なくない。芹澤は今回、自身3球団目となるLGツインズからの誘いを受け入れた。しかしその決断は容易に下せるものではなかった。
星野さんには言えない、韓国からの誘い
芹澤は2017年限りでサムスンを退団し、昨年は楽天で泉犬鷲寮の寮長とテクニカルアドバイザーを任されていた。芹澤にその職を授けた人物。それは昨年1月4日に亡くなった星野仙一楽天野球団取締役副会長(享年70)だった。
芹澤にとって星野氏はプロ入りした時の監督。1996年、プロ10年間で1軍出場なく現役を引退し、29歳でコーチになった時の監督も星野氏だった。芹澤にとって星野氏の存在は“オヤジ”。芹澤は昨年1年間、オヤジが愛弟子に授けた「最後の仕事」を全うしていた。
そんな中、芹澤に韓国からコーチの誘いがあった。12年から3年間、サムスンの監督として芹澤とともに戦い、昨季からLGで監督を務めているリュ・ジュンイル監督(55)の要請だった。
リュ監督は芹澤の勝負に対する強い執念と、手を抜くことなく黙々と取り組む姿を高く評価。再び同じユニフォームを着ることを望んだ。しかし芹澤はすぐに答えを出すことはできなかった。
「星野さんが生きていたら、韓国のコーチに復帰しませんでした。星野さんに“韓国に行きます”とは言えません」
楽天での仕事は韓国でコーチをやるよりも生活面を考えれば安定している。仕事内容にも不満はない。芹澤は星野氏から授かった仕事を当然続けるべきと考えた。
しかし、昨年芹澤にはこの先の人生を考えさせられる悲しい出来事が続いた。10月に共に任務にあたっていた霜田智副寮長が59歳の若さで亡くなり、同月に大宮東高時代の恩師、宗像宣弘元監督(享年70)もこの世を去ってしまったのだ。
背中を押した妻の言葉
仙台に単身赴任していた芹澤は月に数回、埼玉県の自宅に帰った。帰宅した芹澤に妻はこう声をかけたという。
「あなた最近、楽しそうじゃない。楽しそうな顔をしてない」
「コーチの時には愚痴ばかり言っていましたが、それがカミさんには楽しそうに見えたんでしょう。普通ならそのまま楽天にいて安定を求めるんでしょうけどね」
昨年楽天では寮長だけではなくテクニカルアドバイザーとして選手の練習をサポートした芹澤。そこで実感したのは「50歳、まだ動ける」ということだった。
「迷った時には止まるな。迷ったらゴー」。
これは星野氏の教えだ。妻の後押しと現場復帰に高まる意欲。芹澤は韓国でのコーチ復帰を決めた。
“優勝請負人”として目指すは下位からの脱却
芹澤が加わるLGは94年を最後に24年間優勝から遠ざかっている。韓国シリーズにも02年以来出場していない、上位争いからも取り残されたチームだ。SK、サムスンで4度も優勝を経験した芹澤はLGを外から見てこう感じていた。
「選手の気持ちの浮き沈みが激しく、好不調の波が大きい」
長引く低迷の要因には実力だけではない精神面も影響しているというのが芹澤の実感だ。
「リュ監督は日本人の自分が一生懸命やっている姿が選手や年齢が下のコーチに影響を与えると考えているんでしょう。選手とのスタンスは環境やチームが変わっても変わりません。これまで通り、選手と家族同様に付き合うだけです」
芹澤が加わるLGには今年から、かつて中日で星野監督の下でプレーしたイ・ジョンボム(当時の登録名はリー・ジョンボム)が2軍総括兼打撃コーチに就任。サムスンには落合英二投手コーチが在籍するなど、「星野一家」は韓国でもその魂をつないでいる。
星野氏が亡くなってから1月4日で1年。
芹澤は悩んだ末に再び渡ることを決めた韓国で、胸に秘めた「星野イズム」をLGの選手たちに注いでいく。
※本記事は筆者がスポーツ朝鮮に韓国語で寄稿したコラムを、スポーツ朝鮮の承諾を得て日本語で加筆し再編集して執筆したものです。