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追悼・志村けん――国民全員が「志村世代」だった

ラリー遠田作家・お笑い評論家

3月29日、日本人コメディアンの志村けんが新型コロナウイルスによる肺炎のため亡くなった。体調不良で自宅療養中に発熱や呼吸困難が起こったため、20日に入院。23日には新型コロナウイルスの感染が判明して、治療を受けていた。

志村は1974年にザ・ドリフターズのメンバーに加わって以来、現在まで約半世紀にわたって現役のコメディアンとしてテレビを中心に活動してきた。日本では、芸人がテレビで有名になると司会者やコメンテーターなどコメディ以外の仕事もやるようになるものだが、志村は原則としてコントをやることだけにこだわってきた。

日本のテレビではトーク番組が主流だが、志村はコントを演じるとき以外は無口で人見知りな一面があり、トーク番組にもあまり積極的には出ていなかった。

ザ・ドリフターズは日本で最も有名なコミックバンドでありコントグループである。ザ・ビートルズが日本公演をした際には前座を務めていた。ザ・ドリフターズが出演していた『8時だョ!全員集合』(1969-1985)は、国民的な大人気番組だった。志村は彼らの付き人から昇格して新メンバーとなり、若さを武器にして活躍し、数々の新しいギャグやキャラクターを生み出した。彼は加入後まもなくザ・ドリフターズの中心的な存在になっていた。

ザ・ドリフターズが『8時だョ!全員集合』で演じていた笑いは、舞台上を所狭しと暴れ回ったりするスラップスティックなものだった。志村もマルクス兄弟やジェリー・ルイスの影響を受けていて、彼らのように言葉ではなく動きや表情で笑わせることにこだわっていた。

志村の番組は台湾などアジア諸国でも放送されて人気を博していた。言葉に頼らない志村の笑いは日本人だけでなく外国人にも熱烈に支持されていた。

志村の番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(1986-1992)では、視聴者が撮影した笑える映像を紹介するコーナーがあった。この企画は志村の発案によるものだった。一般人が撮影した映像をテレビで広く紹介したのは初めてであり、最近では「YouTubeの元祖」とも評価されている。

この企画フォーマットは海外のテレビ局にも輸出された。アメリカ版としてはABCの『America's Funniest Home Videos』があり、これは1989年の放送開始以来現在まで続いている。

志村は音楽にも造詣が深く、特にソウルが好きだった。初期の頃はテレビでコントを演じる際には自分でその場に合う音楽を選んでいた。志村の音楽的なセンスはさまざまな形で笑いにも生かされており、コント番組で歌手やミュージシャンと共演することも多かった。また、数多くの映画を見て、その演出手法を自分のコントにも取り入れていた。

志村は山田洋次監督の映画『キネマの神様』で主演を務める予定だったが、入院によって出演辞退が発表された。コントだけにずっとこだわってきた志村は、俳優の仕事もこれまでほとんどしてこなかった。映画で主演を務めるのは新しい試みであり、ファンの間では期待が高まっていた。

日本のSNSでは「私は志村さんを見て育ってきた世代だから本当に悲しい」などと幅広い世代の人が書いている。半世紀にわたって第一線で活躍し続けてきた志村は、多くの人にとって最も身近で最も愛すべき芸人だった。国民的な人気を誇る偉大なコメディアンの死は、新型コロナウイルスの脅威を改めて多くの人に実感させるものとなった。

注:本稿は『NIKKEI ASIAN REVIEW』に寄稿した記事の元になったものです。そこでは翻訳されて英語の記事として掲載されました。

記事URL:Ken Shimura's death leaves Japanese of all generations mourning(『NIKKEI ASIAN REVIEW』2020年3月31日)

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行う。主な著書に『松本人志とお笑いとテレビ』(中公新書ラクレ)、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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