【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が後白河法皇から与えられた「寿永2年の宣旨」とは
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第14回では、後白河法皇が源頼朝に寿永2年の宣旨を授けていた。いったい「寿永2年の宣旨」とはどのようなものなのか、深く掘り下げてみよう。
■源頼朝の策略
まだ平家が京都でがんばっていた養和元年(1181)7月、源頼朝は後白河法皇に密奏を行った。これは一種の和睦交渉のようなもので、西国を平家が支配するのを認める代わりに、頼朝に東国経営を任せてほしいと要請したものである。詳細は、こちら。
頼朝の勢力は東国の豪族を基盤としたもので、彼らの支援があったからこそ、東国における平家の勢力を打倒することに成功した。しかし、頼朝はそれだけに飽き足らず、後白河に国家公権の見地からお墨付きを得ようと考えたのである。
早速、後白河は平宗盛にこの件を打診したが、見事に拒否された。清盛が亡くなった際、頼朝を討つことを遺言していたのだから、安易に認めるわけにもいかなかったのだ。
寿永2年(1183)7月、義仲が入京し、平家一門が都落ちすると、さすがの頼朝も焦ったに違いない。やがて、入京した義仲やその将兵の暴挙が問題になると、頼朝にチャンスが回ってきた。
■3ヵ条の申状
頼朝は後白河の窮状を見かねて、3ヵ条の申状を奏上した。その内容とは、以下のとおりである。
①1条―平家が掠め取った寺社領については、元のように寺社に返還する。
②2条―平家が掠め取った公家領については、元のように公家に返還する。
③3条―帰参した武士については、その罪を許し、斬罪を行わないこと。
当時、入京した義仲の将兵は食糧不足だったので、寺社領や公家領を侵し、米などを強奪していた。京都の公家や寺社にとって、まず所領の保全をすることが第一だった。頼朝はそうした公家や寺社の心情を汲み取り、それを3ヵ条にまとめたのである。
頼朝は3ヵ条の申状を示すことで、自身の存在が正当化され、義仲に代わりうる地位の確立を期待した。同時に頼朝は、今すぐ上洛できない事情を次のとおり2ヵ条にまとめた。
①1条―頼朝の上洛中に藤原秀衡が鎌倉を襲撃する恐れがあること。
②2条―数万の軍勢で上洛すると、京都が大混乱すること。
これを聞いた九条兼実は、頼朝の明晰な考え方に賞賛の言葉を送った。いずれにしても、京都の人々は義仲の横暴に耐えかね、頼朝の上洛を心待ちにした。
■寿永2年の宣旨
頼朝の申状を受けて、寿永2年(1183)10月に宣旨が頼朝に与えられた。なお、寿永2年の宣旨の本文は伝わらず、『玉葉』(兼実の日記)で概要をうかがい知ることができる。
当初の宣旨は、頼朝に東海、東山、北陸の3道の荘園を元に復すること、そしてこの宣旨に従わない者の追討を命じる内容だった。しかし、その後、義仲への配慮からか北陸道が外され、追討権から沙汰権へと後退した。
とはいえ、寿永2年の宣旨により、頼朝は実力で確保した東海、東山の2道の進止権を国家公権たる朝廷から認められた。同時に頼朝が義仲を意識していたのは明らかで、北陸道の支配を望んでいたのは、その証であるといえよう。
今後、頼朝が義仲や平家の討伐に成功すれば、その支配領域が全国に及ぶのは明らかだった。それゆえ、頼朝にとって寿永2年の宣旨を受け取ったことは、実に大きな意義があったのである。
■むすび
大河ドラマのなかでは、あまり取り上げられなかった寿永2年の宣旨には、実に大きな歴史的な意義があった。これにより頼朝は、本格的に義仲や平家の討伐に邁進するのである。