織田信長に負けた松永久秀が「平蜘蛛茶釜」とともに爆死したのは、ウソ
大河ドラマ「どうする家康」では、残念ながら松永久秀が登場しなかった。せっかくなので、織田信長に負けた松永久秀が、本当に茶釜とともに大爆発したのか考えることにしよう。
元亀元年(1570)、織田信長は松永久秀に大和一国を与えたが、それには見返りが必要だった。当時、久秀は茶の名器を多数所持していたので、茶器「九十九髪茄子」のほか、「不動国行の刀」などを信長に献上し、忠誠を誓ったのである。
ところが天正元年(1573)、足利義昭が信長と決裂すると、久秀は義昭に味方したが、義昭は信長に敗れて逃走した。翌年、久秀は信長に降伏し、居城の多聞山城(奈良市)を信長に差し出すことを条件として、再び配下に加わったのである。
天正5年(1577)8月、久秀は再び信長に兵を挙げた。信長は理由を尋ねるべく、松井有閑を久秀のもとに遣わしたが、ついに面会は叶わなかった。同年8月10日、信長は嫡男・織田信忠を総大将とし、筒井順慶らの軍勢を信貴山城(奈良県平群町)に送り込んだ。
同年10月、信忠らが信貴山城を攻囲すると、落城も時間の問題となった。信長は久秀に「名器〈平蜘蛛茶釜〉を差し出せば命を助ける」と伝えたが、久秀は「平蜘蛛の釜とわれらの首と二つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と答えた。
信長は久秀の答えを聞くと、人質だった久秀の孫2人を京都六条河原で斬った。同年10月10日、織田軍の攻撃が開始されると、久秀は天守で「平蜘蛛茶釜」を叩き割り爆死し、首も茶器も粉々に砕け散ったと伝わっている。
久秀の爆死は、大変有名なエピソードとして巷間に広まったが、『川角太閤記』に書かれたことであてにならない。
一方、『多聞院日記』には、久秀が「平蜘蛛茶釜」を叩き割って、自害したと書かれている。久秀が天守に火を放って死んだというのは、『信長公記』にも同じ記述がある。その後、久秀の首は安土城に運ばれたのだから、首は砕け散っておらず、『川角太閤記』の記述は誤りだろう。
久秀の死後、多羅尾光信が「平蜘蛛茶釜」の破片を拾い集め、再び元の形に復元した。実際に、復元された「平蜘蛛茶釜」は、光信の父・綱知が茶会で用いた記録がある。それだけの名器だったので、久秀が信長に渡したくなかったのは、事実なのかもしれない。