高校野球秋の陣で優勝の明徳義塾監督・馬淵史郎という男(その3)
「もちろん、あんな騒動になるとわかっていたら、敬遠はしなかったよ」
馬淵史郎監督は、そう振り返る。1992年夏の甲子園、2回戦。星稜と対戦した明徳義塾は初回、2死三塁のピンチで松井秀喜を歩かせた。その後、合計5回の打席をすべて敬遠(もっとも、明らかに捕手が立ったわけではないから、記録上は正確には"四球"だ)。ゴジラの力量見たさに詰めかけた観衆が、フィールドにコップ、メガホンなどを投げ込み、試合が中断する前代未聞の騒ぎとなった。結果は明徳が3対2で勝利したが、これがいわゆる"松井5敬遠"である。
ただ、そもそも……馬淵の野球観は、つねに確率に立脚している。監督は、ギャンブルしたらいかん。指揮官はつねに選択を迫られ、間違ったら全員が失敗する。たとえばヒットエンドランにしても、配球の過程、投手の性格、クセ、打者の能力……を見て、成功する確率が高いボールでサインを出す。勝つためには、当然のことだ。松井の敬遠も、勝つための確率を逆算すれば、必然の策だった。馬淵はいう。
「汚い? それなら、バスターバントもピックオフプレーも汚いんか。そういう駆け引きがあるからこそ、力のないものが勝つこともある。力通りに決まるんなら、試合前のフリー打撃とシートノックで勝負を決めたらええ」
けたぐりで番付が上の相手に勝った力士を、だれも責めはしない。それなのに松井の5敬遠は思いもかけぬ物議を醸し、いわれのない批判を受ける。”コト起こし“らしく、馬淵は一度辞表を出した。慰留されはしたものの、騒動の余波であるかのように明徳は以後丸3年、甲子園から遠ざかり、馬淵は二度目の辞表を出している。
「松井後遺症? ひきずってないんやけどね、ワシは。でも3年も甲子園に出られんときには、辞めようかと思って辞表を校長に持っていったんよ。正月返上までして勝てんのは、オレに力がないからや。ただ欲をいえば、もう1回甲子園に出るまでやらしてくれ、と。ワシはひきずってないんやけど、松井の敬遠でつぶれたといわれるのもつまらんからね」
またも慰留され、翌96年に春夏連続出場を果たしたのを皮切りに、馬淵率いる明徳は、毎年のように甲子園に姿を見せている。
「うまいカツオを食いたいわ」
誤解を恐れずにいうとこの時点では、高校野球という大河ドラマで、馬淵はとかく仇役扱いされがちだった。当時、こんなふうに語っていたものだ。
「なんでそう見られるんかな。松井の敬遠か? オレなにも悪いことしとらんのに。まあ、野球知らんヤツにはいわせておけばいいんよ」
馬淵にとって、忘れられない試合がもうひとつ。怪物・松坂大輔擁する横浜に、6対0から残り2イニングで逆転負けした98年夏の準決勝だ。8回に4点を献上し、9回に3点を取られる大逆転サヨナラ負け……。
「それにしてもあの試合、横浜の校歌が長くてなぁ。負けて聞くからなおさらよ。やっぱりどんなに点差があっても、自分たちのできることをきちんとこなしていくから横浜は勝負強いんよ。横浜の渡辺(元智監督・当時)さんはあのとき53歳か。あと5年でワシも53じゃけど、あんな野球ができるかの」
そんな話をしてから2カ月ほど後。明徳は夏の甲子園を制し、初めて全国の頂点に立つことになる。松井の5敬遠からちょうど10年がたっていた。いつでも本音で語り、ときにウィットに富みときにケムにまくだみ声の"馬淵節"が、人気を集め始めたのはこのころからである。当時の優勝インタビューがいい。
「いま、なにをしたいですか?」
と問われ、
「漁師町の生まれじゃからね、魚にはうるさいんよ。早く高知に帰って、うまいカツオを食いたいわ」