スクエニ前社長が語る、変革期の経営・人事戦略【和田洋一×倉重公太朗】第1回
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今回のゲストは、日本のコンシューマゲーム業界の発展に尽くし、藍綬褒章を受賞されたこともある和田洋一さんです。彼は1984年に野村証券入社し、2000年に株式会社スクウェアに転職。01年に同社代表取締役社長兼CEOに就任しました。和田さんがスクウェアに入った当時は、映画『ファイナルファンタジー』の不振で厳しい状況に置かれており、内部でも部長クラスの多くが退職して、ガタガタの状態でした。和田さんはそんな状況を立て直し、エニックスと合併する直前には創業以来の最高益を記録するまで盛り返します。当時彼の行った社内改革について詳しく伺いました。
<ポイント>
・経営者になるための修行の場として選んだ会社は?
・エニックスとの合併を決意した理由とは
・決断を下すための毎朝のトレーニング
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■目標は「人生を3つ経験すること」
倉重:今回はスクウェア・エニックスの前社長、和田洋一さんに来ていただきました。
大御所の方です。恐縮ですが、自己紹介からお願いしてよろしいでしょうか。
和田:私も61歳になり、すっかりじじいです。
倉重:とてもそうは見えません。
和田:私は「人生を3つ経験してやろう」と思い、最初は野村証券に入りました。野村證券にサラリーマンとして16~17年働き、スクエア・エニックスには経営者として16年いました。ここ3年ぐらいは前から若い人たちに関わりながら、の間で「次に何をやろうか」と考えてながら関わっている感じです。
倉重:最初に就職された時は野村証券だったのですね。
和田:そうです。
倉重:どこかのインタビューで、「学生の頃から経営者になりたいと思っていた」とおっしゃっていました。そう思うようになったきっかけはあったのでしょうか?
和田:昔はロシアのことを「ソ連」といい、米ソの冷戦というものがありました。どうやって世の中の役に立とうかと考えたときに、「よし、米ソの冷戦を止めてやる」と高校生の時に思ったのです。
倉重:壮大ですね。
和田:そのために、まずは外交官を目指そうと思いました。アメリカは競争率が高そうでしたが、ソ連は楽そうだったので、大学ではロシア語を選択したのです。ただ、大学受験からすぐに外交官試験の勉強をするのはつまらないので、「裏を取ってやろう」と思いました。キャンパスで先輩をつかまえてヒアリングすると、茗荷谷に外交官の研修センターがあることが分かりました。玄関で待ち受けて、次から次へと話を聞いてみましたが、割と退屈なことをしているようなのです。
倉重:仕事って、イメージしているものと違って、やってみたら意外とつまらなかったということはありますよね。
和田:「外交官になっても何か面白くないな」と思いました。それが5~6月でしょうか。入学して3~4カ月ぐらいでやる気がなくなり、どうしようかとしばらく考えていました。あの頃のリーダーは、レーガン、サッチャー、ミッテランと皆キャラが立っていたのです。調べてみると面白い事に、ナンバー2が公務員や政治家ではなく、財界出身でした。僕も経営者としてまず実務に根差した成功をして、それからお国に関わろうと思ったのです。
倉重:政治的なほうから経営者になりたいと思われたのですね。
和田:そうです。「経営者デビューをするのは気力、体力、知力が充実している40歳にしよう」と決めました。40歳まで一番鍛えられるところに行こうと、50数社を訪問したのです。あの時は超売り手市場でしたから、就職するだけならそんな事をする必要はないのですけど。結局、業界が一番動いていて、一番厳しい会社ということで野村証券を選びました。
倉重:20歳ぐらいの時に、一度目指していた方向と違うほうへ行こうと決断されたのですね。
和田:そうです。10代の後半で目指していた外交官から宗旨替えをして、経営者経由でお国の役に立とうと思いました。
倉重:私も経済学部出身で、最初は公認会計士の試験を受けるために専門学校へ行ったのですが、1カ月で電卓を放り投げて壊してやめました。その後、弁護士の司法試験へ移りましたから、よく分かります。「やってみたら合わなかった」というのはありますよね。
和田:そうです。当時、経営陣の学歴が一番低くて、業績が一番良かったのが野村証券です。「東大卒は営業なんてしなくていいからね」と採用担当者が言う会社が何社もありましたが、そういう会社は絶対に信用できません。野村だけは、東大だからと言って甘やかすような事は決して言いませんでした。
倉重:実力主義でいいですね。
和田:最初の配属部店の直属の課長も高卒でした。学歴、出自が全然関係ない会社だったのです。最近は知りませんよ。すっかりエスタブリッシュメントのようですから。
倉重:そうすると、当時としては珍しく、最初から終身雇用でずっといようという発想はなかったわけですよね。
「ここまでやったら辞めよう」という考えはありましたか。
和田:40歳を節目と考えていまいた。入社時は、野村証券には「キープヤング」という謎の片仮名があり、40歳で取締役に就任する人もいたのです。当時の勢いが加速すれば、早晩30代後半で取締役、40代で社長もあり得るのではないかと期待しましたが、見込み違いでした。むしろどんどん遅くなっていきましたね。野村を去る時はまあまあいいポジションに就けていましたが、平取締役になるまで、最短でもさらに5年から7年はかかる状態だったのです。
倉重:社長になるにはさらにかかりますからね。
和田:そんな時間があれば、外に出て一勝負できると感じ、「やはり計画どおりに辞めよう」と思いました。
倉重:ある程度いいポジションにいたのに「辞めよう」と決断できるのもすごいです。
■40歳でスクウェアのCFOに就任
倉重:そこで当時のスクウェアに転身されましたが、どういうきっかけでしたか。
和田:私たちの周りにはいろいろな電波が流れていますが、自分でチューニングをしないとその電波は入ってきません。「俺はそろそろ転職しないと」とチャンネルを合わせていたら、就職活動をしていないのにさまざまな情報が入ってきたのです。スクウェアはその中の一つでした。40歳でになったら経営者デビューするつもりでしたが、最初から社長になれるとは思っていませんし、ご縁があるのはいいことだと考えて、CFOとして着任しました。
倉重:アンテナを張っていたら、たまたま来たということですか。
和田:たまたまです。ゲーム会社と何の関係もありませんでした。
倉重:元々ゲームはお好きでしたか。
和田:やってはいましたが、自分の職業にするとは夢にも思いませんでした。
倉重:スクウェアに入られた当初は、財務の担当ですか?
和田:ひどい状態でしたから、財務に限定していては間に合いません。ある程度立て直し、内部を整えてから創業メンバーに返し、2年から4年ぐらいで次へ行こうと思っていました。ITバブルの時にひどい倒れ方をした会社がいくつもあるでしょう? あのような状態でした。
倉重:映画『ファイナルファンタジー』の失敗などもあり、法務や財務、広報の部長クラスが皆辞めてしまいましたね。
和田:映画の失敗は典型的ですが、全部痛んで駄目でした。それを話すとひたすらディスるだけになりますのでやめておきます。別のところでも少し書きましたが、駄目なときというのは何か一つがダメになっているのではなく、基礎ができていないのです。基礎ができていない駄目になり方は全滅します。どこから崩れているのか、外からは崩れる順番が見えますから、ある部分そこが崩れたかに見えます。しかし部分が崩れているのと、構造的に崩れているのとでは、大きく違います。スクウェアは構造的にがガタガタでした。
倉重:これはゲーム会社だけの話ではありません。日本企業はこれまでうまくやってきたものの、実は構造的な問題のある企業もたくさんあると思います。立て直しという面で意識されたのはどういうことですか。
和田:スクエニを経営する時に3局面ぐらいやりましたが、まずはターンアラウンド(事業再生)です。スクエニにする前のスクウェアのの時はひたすらターンアラウンドでした。ターンアラウンドとはどういうことかといいますと、あのときゲーム業界の市場環境は良かったのに、スクウェアだけが勝手にダメになっていたのです成長も何もなかったからです。ゲーム産業は、まだ家庭用ゲーム全盛期でした。
倉重:当時はプレステの時ですか。
和田:私が着任したのが、プレステ2が出るか出ないかぐらいの時期です。ファミコン、スーパーファミコン、PlayStation 1と、まだ業界が一番もうかっている時です。
倉重:『FINAL FANTASY 7』が大ヒットしていた時ですかね?
和田:そうです。スクウェアはそこまでは良かったのですが、それ以降ただ1社だけ崩れていたのです際立って変ちくりんになってしまい、一人負けでした。あの時のグラフを見たら分かりますが、一つだけ、ばーんと落ちています。ターンアラウンドするときは、とにかく断固としてダメなものを切っていき、いいものだけにフォーカスすることをいう教科書どおりにやりました。
倉重:事業を一つひとつ見直して、「これは残す」「これは切る」と判断されたのですか。
和田:はい。要するに外科です。身体の構造を把握した上で大胆にオペします。動脈切断するには細心の注意を払いつつを切っては死んでしまうからこれを切っては駄目だ、「残念ながら右足は切ろう」という選球眼が必要でした。重要なことは、正しく外科をすること。「こういう処置をする」と決め言ったら、ひるんではダメです。ちゃっちゃかやらなければいけません。体力がないので長い手術はできません。
倉重:キャッシュ(血)、を入れないといけませんね。
和田:そうです。手術直後にはソニーさんから投資してもらいましたばっさばっさやらなければいけないのがターンアラウンドです。ターンアラウンドの実行はこれをやる側からしますと、きちんとした基礎がありできていて、ひるまない度胸と実行力さえがあれば、独自のビジョンは不要なのでそれほど大変ではありません。成長戦略とはまた全然違う話です。
倉重:切るものは切った上でビジネスモデルを再構築するということですか。
和田:その時はビジネスモデルをいじっていません。普通にしていれば稼げる状態なのに一人負けしていましたから、「正しい姿勢元に戻りましょう」ということがテーマでした。
■長年のライバル、エニックスと合併した理由
倉重:その後にエニックスとの合併という話になるわけですね。
和田:そうです。これを話すとめちゃめちゃ長くなってしまうのではしょりますが、その頃れから「ゲーム産業が変革期に入る」ということは予想していました。
スクウェアは皆がわいわい盛り上がっているときに一人だけ負けていましたが、変革期が来て皆がどーんと沈む直前にばっと戦列に戻れたのです。
倉重:あと5年遅れていたらアウトという感じでしょうね。
和田:間に合いましたが、ただ健康体になっただけでは足りません。ただ、業界ごと沈んでいくことは予想できましたから、次にどうしなければいけないのかを考えました。今度「何を成長のキーとするか」を決めて、成長戦略やビジネスモデルを全部変えなければいけませんでした。これもはしょりますが、まず1発目はエニックスとの合併を選択したのです。
倉重:その決め手は何でしたか。
和田:まず文化を変えなければいけません。社員の大多数は、要するに「自分たちはよくできていた、いいときもあった」と評価していて、今からダメになるとは思っていないわけです。
倉重:成功体験がありますからね。
和田:成功体験でこけたのですが、非常に短期間でターンアラウンドをしてしまったため、現場にこけた意識はありませんでした。
倉重:気付いていなかったのですか。
和田:はい。何も変えないで変革期に「またやろう」という感じで突入してしまうとえらいことになりますから、仕様を変えないといけません。そのためには買収ではなく、「合併しかない」と考えました。
倉重:文化自体を変えようということですか。『ドラゴンクエスト』と『FF』の世界観の違いはよく言われますけれども、開発の仕方も含めて、いろいろなところが違ったのではありませんか?
和田:違っているからいいのです。エニックスはやたらと国内志向で、スクウェアは海外が好きで憧れているものの、まだ販路もありませんでした。自分たちで開発部隊を持たないエニックスと、全部自前でやろうとするスクウェア。とにかくいろいろなところが違っていました。多様性を持つという観点から、これを混ぜるのが早いと判断したのです。
■判断能力を鍛えるためのトレーニング
倉重:まさにダイバーシティーです。
こういう的確な判断力はどこで鍛えられたものですか。
和田:的確かどうか分かりませんが、自分で決めたら着地するまでは責任を持ってやらないといけません。
倉重:もちろんそうですが、今の若い人がこういう重たい決断をできるようになるには、どういう訓練をしたらいいのでしょうか。
和田:人によって違いますから分かりません。ただ僕は20歳くらいの時から、「経営者で成功してうまいことをやったら次はお国に」と元々思っていましたから、自分が経営者だったらどうするかということをサラリーマン時代もずっと考えてやっていました。
倉重:サラリーマンの時も経営者目線を常に持っていたのですか。
和田:訓練、トレーニングです。例えば新聞に「新日鉄の何々工場が閉鎖」と出たとします。そうすると、この工場は新日鉄にとってどのぐらいの重さなのか、それ以外の選択肢はあるのかを考えます。毎朝このようなことを考えるわけです。
倉重:それは誰でもどこでもできますね。
和田:そうです。答えはなく、ぼーっと妄想するぐらいですが、勉強にはなります。
野村時代には幸いにも多様な部署を経験出来ましたから、それを続けていきますと、それぞれの部署を異動することに対して、いろいろな角度で物が見えるようになりましたす。野村の中で非常にいい異動ができたのも幸せでした。トレーダー以外のほぼ全分野を経験出来ましたからできました。
倉重:営業の現場からバックオフィスまで、いろいろ知っているということですね。
和田:そうです。それが本当に役に立ちました。
(つづく)
対談協力:和田洋一(わだ よういち)
1984年、野村証券入社。2000年、株式会社スクウェア入社。2001年にCEO就任。2003年から2013年まで株式会社スクウェア・エニックス(現スクウェア・エニックス・ホールディングス)CEO。社団法人コンピュータエンターテインメント協会会長、経団連著作権部会長なども歴任。現在は、メタップス、マイネット、ワンダープラネットの取締役、数社のアドバイザー等。