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必然の奇策――『ロジャー・フェデラー、一撃で崩れた王者の思考回路』から4年後の解答

内田暁フリーランスライター
(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

2011年USオープン準決勝――ロジャー・フェデラーは2本連続のマッチポイントを手にしながら、ノバク・ジョコビッチが放った鮮烈なリターンエース『ザ・ショット』によって崩壊し、敗戦へと落ちていった……。

この時のフェデラーの脳と身体に起きた現象を、スポーツ脳科学を研究する神経科学者の柏野牧夫教授に解説して頂き、7月16日発売の1007号に記事として掲載。精神的に崩れたかに見えた敗戦は、テニスという競技を究極までに理解するフェデラーだからこそ陥った『エキスパートエラー』だった。

そして、『ザ・ショット』から4年後……フェデラーはジョコビッチに対し、あの敗戦から学んだ一つの解を突きつける――。

 「僕のセカンドサーブに対して、ロジャーはものすごく攻撃的だった。今大会の彼は新しいことに挑戦しているようだが……僕からは、それに関するコメントは特にないよ」

 敗戦の記者会見席に座るノバク・ジョコビッチは、破れた事実以上に、一つの『奇襲』に苛立っているようだった。

 2015年8月、シンシナティ・マスターズ決勝戦。

 下馬評で優位に立つ世界1位のジョコビッチを破ったのは、34歳の誕生日を迎えたばかりの、ロジャー・フェデラー。ATPマスターズ9大会のうち、リストに唯一欠けていたシンシナティに挑んだジョコビッチの“マスターズ完全制覇”の野望は、かつての絶対王者に阻まれた。

 『奇襲』が飛び出したのは、均衡状態のまま進んだ第1セットの、タイブレークのことである。

 フェデラーが3-1とリードした局面で、ジョコビッチがセカンドサーブを放とうとした、その時――。

 フェデラーはスルスルとポジションを上げ、ジョコビッチのサーブが跳ねた時には、既にサービスライン近くまで深く踏み込んでいた。しかも、サーブの跳ね際をフォアハンドで巧みに捉え打ち返すと、なおも前へと猛進したのだ。

 そのフェデラーの姿は当然、予期せぬ衝撃と共にジョコビッチの視界に飛び込む。慌てふためいた世界1位のバックハンドは、失速し、ネット際まで来ていたフェデラーの目の前でネットを叩いた。

 自らのミスへの苛立ちか、あるいはフェデラーの策にまんまとハマった屈辱からか、ジョコビッチは大きくラケットを振りかざし……地面に投げつける直前で、必死に耐える。

 だがこのプレーを機に、ジョコビッチの中で何かが崩れたのは確実だった。その後、1つのポイントも取れず第1セットを落としたジョコビッチは、第2セットの最初のサービスゲームで、3本のダブルフォルトを重ねてブレークを許したのだ。

 この時点で、実質的な勝敗は決した。以降もジョコビッチは、狂った歯車を修正することができない。終わってみればフェデラーは一度もブレークを許すことなく、7-6,6-3のスコアで勝利を掴み取った。

それは奇策か、あるいは大胆かつ冷静な知略か――?  

 「何度も何度も自分に問いただした末に、非常に良い作戦を選択できたことが嬉しい」

 トロフィーがテーブルに飾られた勝利会見で、フェデラーは試合のターニングポイントを理路整然と振り返る。実はこの試合でフェデラーが、『奇襲』を試みたのはタイブレークが初めてではない。第1セットの序盤でも一度試し、その時もジョコビッチのミスを誘うことに成功していた。

 後に、Sneaking Attack By Roger(ロジャーの奇襲)を略し『SABR(セーバー)』と名付けられたこの技の有効性を、フェデラーはこの時に実感できていたはずだ。ただ、あくまで『奇襲』は限られた局面で使ってこそ効果を発揮する。だからこそ、第1セットが均衡状態のまま終盤に向かうにつれ、「どこで使うべきか」と機を伺っていた。

 相手が予期せず、なおかつ試合の大局を左右しうる……つまりは、相手に最も精神的ダメージを与えられるチャンスを――。

 息を潜め待ち続けてきたその時が、第1セットのタイブレークで訪れる。

バックサイドに来ると予想していたジョコビッチのセカンドサーブが、フォアに来たのは想定外。だがフェデラーは、「確実に深く返さなくては」と自分に言い聞かせ、その思いを実践した。

 SABRは確かに、外形的には奇策である。だがその実は、経験と技術に裏打ちされ、つぶさな観察と判断力により組み立てられた、緻密な知略であった。

 フェデラーとジョコビッチの対戦で、『奇襲』と言って思い出されるのは、2011年全米オープンの準決勝。ファイナルセットのフェデラーのマッチポイントで、ジョコビッチが放った、一か八かのギャンブル的リターンエースだ。

 結果、ジョコビッチは博打に勝ち、試合そのものも大逆転勝利を手にする。

 一方で破れたフェデラーは、「あの局面で、試合を投げたような精神状態の相手に負けるのは、あってはならないことだ」と怒りに似た感情を吐露した。

 あの試合でのフェデラーは、摂理の外から飛び込んできた1本のショットに、自らが構築してきた世界を壊された。

 ただ彼は、この時に学んだはずだ。想定外の出来事が起きた時、絶対的な法則を自身の内に有する練達の士ほど、実は脆いということを。

 そして4年後……彼はマスターズ1000の決勝の舞台で、ジョコビッチの世界を崩壊させた。

 SABRは、フェデラーが4年の前の全米オープン準決勝で味わった、ジョコビッチによる未知なるショットの産物である。

 ただそれはあくまで彼の哲学に則り、緻密に、知的に、そして計画的に遂行された――。

 

 

フリーランスライター

編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスのライターに。ロサンゼルス在住時代に、テニスや総合格闘技、アメリカンフットボール等の取材を開始。2008年に帰国後はテニスを中心に取材し、テニス専門誌『スマッシュ』や、『スポーツナビ』『スポルティーバ』等のネット媒体に寄稿。その他、科学情報の取材/執筆も行う。近著に、錦織圭の幼少期から2015年全米OPまでの足跡をつづった『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)や、アスリートのパフォーマンスを神経科学(脳科学)の見地から分析する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。

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