癒しの場から娯楽の場へ、日本人と温泉の歴史
中世における京都の公家たちの温泉行は、病気の治療や病後の静養が主な目的です。
しかし、そこには「湯治」にかこつけた遊び心もすでに垣間見えます。
静かに癒されるための旅と称しつつも、心の奥にはひそかな遊山気分がありました。
癒しの場から娯楽の場へ温泉が変化した江戸時代
時代が江戸に移ると、参勤交代制度によって全国の交通網が整備され、温泉行はさらに盛んになっていきます。
諸大名たちは、自らの領地にある温泉を領民の湯治場として保護しつつ、彼ら自身も「物見遊山」として温泉を楽しみました。
領主が自国の温泉に足を運ぶ姿を見た庶民たちも、次第に温泉というものがただの治療の場ではなく、少し贅沢で特別な場所であるという認識を持ち始めのです。
さらに、江戸時代には温泉の科学的分析も行われるようになり、宇田川椿奄のような洋学者たちがその効能を探求しました。
温泉はもはや単なる民間療法の域を超え、自然科学的な裏付けを伴った療養の手段として発展していきます。
もちろん、それにより温泉はますます多くの人々を引きつけたのです。
箱根の温泉を例に挙げてみましょう。
古くは室町時代、熊野社への参詣者が道中で温泉に立ち寄ることがあったとされます。
芦ノ湯はそうした参詣者の宿坊として機能し、信仰と温泉のつながりが形作られたのです。
戦国時代には、底倉湯周辺で土豪たちが「百姓」の家を湯屋として利用し、そこで薪や酒を供給するという記録が残っています。
温泉は武士や領主だけのものではなく、百姓たちの生活にも深く根ざしていました。
また、江戸期には草津温泉が盛んになり、その周辺の農村での生活が描かれていました。
「村の娘たちは草津の温泉宿で女中として働き、若者は馬の世話をし、老人や子供たちは湯治客に食べ物を提供する」、そんな生活風景が広がっていました。
これらの村人たちは、自らも温泉に浸かり、癒しを求めていたでしょう。
温泉は、彼らにとって働く場であると同時に、癒しの場でもありました。
もちろん、すべての人が簡単に湯治に出かけられたわけではありません。
江戸初期の町人や百姓たちにとって、温泉旅行は気軽に楽しめるものではなかったのです。
しかし、化政期になると、「講集団」と呼ばれる信仰を基にした団体が温泉巡りを行うようになり、集団での湯治が一般化していきます。
これらの集団は表向きには信仰の旅であったものの、その実態は「色気」と「食い気」に満ちた娯楽的な旅でありました。
「伊勢参宮道中日記」には、そのような享楽的な側面が生々しく描かれています。
こうした庶民の間での温泉の広がりを象徴するのが、江戸期に発刊された温泉の「番付表」です。
東の大関は「上州草津ノ湯(現在の草津温泉)」、西の大関は「摂州有馬ノ湯(現在の有馬温泉)」とされ、全国の温泉が競い合うように人気を集めていました。
江戸時代、温泉は単なる癒しの場から、大衆の娯楽の場へと姿を変えました。そして、この変化は単なる文化的なものにとどまらず、経済的な側面も帯びています。
草津温泉の例を挙げれば、江戸初期からすでに温泉の「私有化」が進み、旅館業と結びつきながら資本主義的な経営が発展していきました。
明和8年(1771年)には、すでに約一万人もの浴客が草津温泉を訪れていたという記録が残っており、この時期に温泉と経済の結びつきが一層強まっていたことがわかります。
こうして、温泉は時代とともにその形を変えながら、人々に癒しと楽しみを提供し続けてきました。
江戸時代の庶民にとって、温泉は身体を癒す場所であると同時に、日常を離れて心を解き放つ「遊び」の場でもあったのです。
参考文献
茨城大学教養部紀要24号p. 295-314 「ゆ」と日本人に関する文化社会学的研究--聖・俗・遊のパースペクティブから