九州征伐で大失態を演じ、豊臣秀吉から改易された仙石秀久
現在でも仕事で大失敗し、惨めな思いをする人はいるだろう。九州征伐の際に出陣を命じられた仙石秀久は大失態を演じ、豊臣秀吉から改易という厳しい処分を受けた。その経緯を見ることにしよう。
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かねて大友宗麟は島津義久・義弘兄弟と交戦していたが、劣勢になったので、豊臣秀吉を頼った。秀吉は島津兄弟に停戦を求め、国分案を提示したが、それは拒否された。こうして、天正14年(1586)にはじまったのが九州征伐である。
同年、秀吉は仙石秀久に総大将を命じ、九州征伐を敢行した。当時、秀久は高松城(香川県高松市)主を務めていた。秀久に従ったのは、虎丸城(香川県東かがわ市)主の十河存保、岡豊城(高知県南国市)主の長宗我部元親と子の信親である。
秀久の率いる軍勢は、四国勢を含めて約6,000で、これに大友勢が加わって、総勢約20,000だったといわれている(数は諸説あり)。いかに数が多いとはいえ、秀久率いる連合軍には問題があった。
そもそも四国において、秀久は存保とともに豊臣軍の一員として、元親と交戦していた(四国征伐)。その結果、秀久らは勝利したが、元親には不満が残ったに違いない。そのような事情のある秀久の連合軍は、一枚岩だったとは考えにくい。
実際には、豊臣軍の本隊が九州に駆け付ける予定だったが、なかなか到着しなかった。元親は豊臣軍の本隊を待とうと意見したが、一刻も早く島津勢を叩こうと考えた秀久は、元親の意見を退けて決戦に臨むことを決意した。この判断が間違いだった。
同年12月、秀久勢は島津勢に戦いを挑んだが(戸次川の戦い)、大敗北を喫したうえに、信親と存保は戦死したのである。元親は伊予へ敗走し難を逃れたが、小倉城(福岡県北九州市)に撤退した秀久は秀吉から敗北の責任を厳しく問われた。
戦後、秀吉は秀久を改易とし、高野山(和歌山県高野町)への追放を命じたのである。天正18年(1590)に秀吉が北条氏征伐を開始すると、秀久は小田原(神奈川県小田原市)に参陣した。このとき秀久は戦功を挙げ、のちに小諸城(長野県小諸市)主になったのである。