有馬記念を制したキタサンブラックの武豊。その勝利を報告した意外な人物とは……
第62回有馬記念を制したのはキタサンブラックと武豊
クリスマスイヴに行われた第62回有馬記念はキタサンブラックが優勝。武豊騎手が1番人気に応える見事な手綱捌きでヴィクトリーロードをいざない、同馬のラストランを飾ってみせた 。
快晴ながらスタンドは影に覆われ、肌寒さを感じる気候の中、午後3時25分に運命のゲートが開いた。
3日前に行われた枠順抽せん会で、絶好の2番枠を引き当てた武豊。「(出遅れないように)1番緊張した」というスタートを決めると先頭に立ちライバルとなる15頭を引っ張った。
他馬にはマークされるが、肉を切らせて骨を切るのはこの馬の得意とする戦法。これにペース感覚も抜群の天才騎手が乗って誘導しているのだから正に鬼に金棒。序盤は12秒前後のラップで飛ばし、中盤13秒台に落とすと、後続馬たちは金縛りに合うように手も足も出せない。そうこうするうちゴールは近くなり、最後はこれまた得意のロングスパート。ラスト800メートルを47秒3でまとめると、もう誰も王者の影すら踏めない。かくしてキタサンブラックの現役最後の一戦は大団円を迎えたのであった。
キタサンブラックに対する言葉に伺える武豊の姿勢
最終レース終了後には“キタサンブラックお別れセレモニー”と称して、オーナーの北島三郎氏、調教師の清水久詞、調教をつけてきた騎手の黒岩悠やかつてのパートナーの北村宏司、それに武豊も参列してプチ引退式が行われた。
キタサンブラックの歌が紹介され、キタサンブラック自身も関東のファンに最後のお披露目を果たす。そして、最後は北島三郎の音頭で関係者とファンによる「まつり」の大合唱。ところどころ歌詞を“競馬”や“キタサン”に変更しての替え歌で大いに盛り上がってセレモニーは幕を下ろした。
「もはや競馬の枠を超えたエンターテイナーでしたね」
その大盛況ぶりをそう評した武豊は「有馬記念で負けていたらと思うとゾッとする」と続け、皆の笑いをさそった。
実際、競馬は負けるのが当たり前のスポーツ。過去には負けた直後に引退式をする馬も何頭も見てきた。
そんな中、キタサンブラックがハッピーエンドを迎えられたのはもちろん偶然ではない。
「天才騎手」とよく言われる武豊だが、人一倍の考察力と誰にも負けない下準備、技術があるからこそ実績を残せているのである。
この日も有馬記念に一意専心するため「他馬の関係者に理解していただき」(本人)他のレースには騎乗せず、グランプリ1鞍にのみ乗って栄冠を勝ち取った。
セレモニーでの大合唱後には「僕はウタではなくウマ、歌手ではなく騎手」と苦笑しながら語ったが、実際に彼の頭の中は「いかにすればよい騎乗が出来るか」を考えることで一杯なのだ。キタサンブラックの引退に向けて、彼が言った言葉にもそんな思考を伺うことができた。
「キタサンブラックにはたくさんの経験をさせてもらい、いろんな事を勉強させてもらいました」
誰もが認める日本一の騎手でありながら、そう言えるところに武豊の競馬に対する真摯な姿勢が伺える。
武豊が勝利を報告した相手は”あの男”だった
さて、レース後に私は面白い光景を目にした。ウィナーズピクチャーを撮影するため、レイをかけられたキタサンブラックに武豊が再び騎乗。写真撮影のための態勢が整うのを待つ間に、そのシーンは起きた。
馬上からチラリと空を見上げた武豊は右手を天に向け小さくガッツポーズ。さらに2度、3度と夕陽に赤く染まる雲が浮かぶ天を見上げたのだ。
その行為にどんな意味があったのか?
セレモニーが終わった後、本人に問うと、最初は「そんなことしていたかなぁ?」とトボけたものの、その後、2人の名前を挙げて「報告しました」と語った。
1人は「父」。往年の名騎手であり、昨年の夏に他界した武邦彦。彼に有馬記念を勝ったことを伝えたと言う。
そして、もう1人。思わぬ人物の名を彼は挙げた。
「あと、後藤浩輝にも報告しました」
これが20戦目で引退の1戦となったキタサンブラック。デビュー戦は2015年の1月31日だったが、その時、騎乗したのが後藤浩輝だった。後藤と共に初めてファンの前に姿を現した鹿毛の若駒は、強烈な勝ち方をしてみせた。後に数々の栄冠を手にするキタサンブラック物語の幕明けは後藤浩輝と共にあったのだ。
しかし、それから1カ月と経たない2月27日、後藤は唐突に逝ってしまった。
武豊がキタサンブラックとコンビを組むのは1年以上後のことである。つまり、騎乗するからといって後藤から何かを聞いたということもなかったはずだ。それでも彼は今は亡き戦友に報告をした。その事実を聞き、武豊が抱えていたであろう一つの重圧を初めて知った思いがした。
キタサンブラックを無事に繁殖にあがらせる。それはこの馬が名馬だから、というだけではない。キタサンブラックのその後の大活躍をみることなく星となった同志・後藤浩輝のためにも、それが使命だと、日本一のジョッキーは考えていたのだろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)