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羽生善治九段も「ひえー」と叫ぶし将棋界ではみんな「ひえー」と声にして驚くけれど、それはいつからか?

松本博文将棋ライター
(画像撮影:筆者)

 先日書いた以下の記事は、かなり大きな反響がありました。

「ひえー、この記事がバズるとは思わなかった」

 というのが筆者の素直な感想です。

「ひえー」は驚きを表現する言葉です。実際に使っている方も、少なからずおられるようです。ただし将棋界ほど話し言葉として頻繁に使われる業界は、やっぱりかなり珍しいでしょう。

 筆者がいま手元で使えるデータベースにおいて、新聞観戦記上で最も早く「ひえー」という声が確認できるのはこちらです。

ここまで我慢を重ねてきた森下に、ついに攻めの手番が回った。指し手は▲1五桂。羽生、「ヒエー」と叫んで頭をかきむしる。森下は「ウーン」と低い声。

出典:鈴木宏彦:棋王戦五番勝負第2局▲森下卓八段-△羽生善治棋王「沖縄タイムス」1997年7月5日夕刊

 ネットやデータベースで「将棋 ひえ」などと検索しみると、おおよそ次のような知見が得られます。

・なるほど将棋界ではベテランから若手まで「ひえー」「ひぇー」「ひえっ」「ひええ」「ひょえー」などと驚いている人がとても多い。

・現在の東京・将棋会館4階には「飛燕」(ひえん)という名の対局室がある。

・将棋界には比江嶋(ひえじま)麻衣子さんという女流棋士がいた。(現在は藤田麻衣子さん。どうぶつしょうぎのデザイナーで、現在は将棋の活動は引退して多方面で活躍)

 「ひえー」から派生した地口(言い回し)としてはそれまでに「ひえーざん延暦寺」がよく知られていました。比江嶋さんの登場によって「ひえーじままいこ」「ひえーじまった」「ひえーじまさん」などのバリエーションが生まれたわけです。(後に姓が変わったため、碓井涼子さん[現在は千葉涼子さん]の名にちなんだ「薄いりょうこ」と同様に、最近ではあまり聞かれません)

 比江嶋さん(藤田さん)は観戦記者として、次のようにも書いています。

 飯島の口は開いたまま。様変わりした局面を少しでもとらえようと必死だ。残り6分で放たれた△5六歩に今度は飯島が「ひぇ…」と声を出した。塚田は落ち着いた顔でもう一本煙草を取り出す。動揺に引きずられてたまるかという勝負師の顔だ。

出典:藤田麻衣子:棋聖戦二次予選▲飯島栄治七段-△塚田泰明九段「産経新聞」2011年3月4日朝刊

 観戦記者の椎名龍一さんは1993年に記者として将棋業界に携わるようになりました。その椎名さんに、この業界ではいつぐらいから「ひえー」は聞かれていたのか、尋ねてみました。

椎名「いつぐらいから言われ始めたのかはわからないけど、僕が入った頃にはもう、みんな言ってましたね。(1997年に)比江嶋さんが女流棋士になった時には、すぐに豊川さん(孝弘七段)が『ひえーじままいこ』って言ってました」

 なるほど、という証言です。

 椎名さん自身も観戦記の中で「ひえー」という声をよく紹介しています。例えば次の通りです。

△1二桂を見て森内は珍しく大きなアクションで頭を両手で抱え込んだ。声にこそ出さなかったが、森内の口癖である「ひえ~」と言うときのジェスチャーだ。この手をみて森内は勝ちを確信しただろう。

出典:椎名龍一:A級▲森内俊之八段-△青野照市九段戦「毎日新聞」2001年11月30日朝刊

 形勢は既に森内八段(現九段)が優勢。そこで青野九段の苦しい意表の受けの手を指した見て、思わず口癖の「ひえー」という声が出そうになる。そこには驚き、安堵、その他様々な感情がこめられているのでしょう。

 他の例も見てみましょう。

 郷田が席をはずした時に丸山は「ピーンチ……を迎えているなあ」と人ごとのようにつぶやいた。表情も苦しそうに見えたが、残り時間14分を確認して闘志に再び火をつけ△4三角と放つ。これには郷田が思わず「ひぇー」とつぶやいた。

出典:椎名龍一:A級▲郷田真隆九段-△丸山忠久九段戦「毎日新聞」2003年1月22日朝刊

(前略)長考で藤井が▲8八角と受け、鈴木は「ひぇ~」とつぶやいた。

出典:椎名龍一:A級▲藤井猛九段-△鈴木大介八段「毎日新聞」2003年6月13日

残り時間32分まで追い込まれ、「ひぇー」という叫びをあげながら、佐藤(康光)は苦悩の末に▲4四歩と仕掛けた。控室では「一目無理な仕掛けですね。佐藤さん以外やらない手でしょう」という冗談まじりの評が出た。

出典:椎名龍一:A級▲佐藤康光棋聖-△久保利明八段「毎日新聞」2003年9月8日

最初は涼しげな表情をしていたが、徐々に時間が残り少なくなってきて、久保の表情が化学変化を起こしたかのように青ざめてきた。残り8分まで追い込まれて前髪をかき上げながら「ひぇー」と小さな悲鳴を漏らして、指した手は▲4五桂打。この手が疑問手だった。

出典:椎名龍一:A級▲久保利明八段-△青野照市九段「毎日新聞」2003年11月26日

 「ひえー」はたいていの場合、終盤の切羽詰まった状態の中で発せられる言葉です。だからその前後の記述も面白いわけです。そしてそれぞれの棋士の人となりを知っていれば、その棋士の声で「ひえー」という声が再生され、当時の情景が容易に想像できるでしょう。

 念のために記しておくと、棋士のつぶやきが椎名さんなど観戦記者の頭の中で全部ひとくくりに「ひえー」と変換されている、というわけではありません。みんな文字通り、そう言っているわけです。

 以上は比較的、若い世代の描写です。「ひえー」という言い方が現在、将棋界でここまで定着しているのは、羽生善治九段、佐藤康光九段、森内俊之九段らの世代が若い時からよく口にしていて、それを見た多くの後進、そのまた後進が自然と真似をして受け継いでいったからではないか・・・というのは筆者の推測です。

 もちろんベテランも「ひえー」と言っています。

 ▲3四歩の取り込みに森下が△4二銀と引いたとき、青野はかすかに「ヒェー」とつぶやいた。▲4三歩のタタキが見えているだけに無理もないが、思わず言葉が漏れるのは余裕の表れでもあろう。

出典:関浩:A級▲青野照市九段-△森下卓八段「毎日新聞」2001年8月6日朝刊

 ぼやいている方が優勢、ということはよくあります。対局の結果は、青野九段の勝ちでした。

 往年の名棋士の驚いたときの表現としては中原誠16世名人の「驚いたね」、そして加藤一二三九段が「うひょー」と叫んだという伝説なども有名です。それらの言葉をめぐる将棋史上の重要シーンについては、また稿を改めてご紹介できればと思います。

【追記】補足記事を書きました。

 将棋はスリル、サスペンス、スペクタクルに満ちあふれたゲームです。百戦錬磨の大家、大先生であっても驚きを隠せない、想像を絶するような手が日常茶飯事で現れます。現在の将棋は戦国時代頃から指されています。おそらくは将棋が指し始められた頃から、人々は「ひえー」に類する言葉を叫び続けてきたでしょう。

 将棋を指す人が「ひえー」と言い始めたのはいつなのか、完全に特定するのは難しそうです。雑なことを言えば、それは少なくとも「ひえーざん延暦寺」という言い回しがされ始めた昔にまでさかのぼりそうです。

 後世「1世名人」の称号を贈られた初代大橋宗桂(1555-1634)は、もともとは京都の町人で、戦国時代から江戸時代初めまでを生きた人です。

 伝説では織田信長から桂馬の使い方が上手いとほめられて「宗桂」を名乗ったということになっています。ただしその話は信頼できる資料の裏付けはなく、どうも後世の大橋家の人が、かなり盛って創作したエピソードのようです。

「織田信長は初代大橋宗桂と将棋で対局しながら『ひえーざん延暦寺』とつぶやいていた」

 いまそんな創作をして流しても、あまり信じる人はいないでしょうが、もう数十年もすれば「諸説あります」という雑な断り書きとともに紹介されるかもしれません。

 1571年、織田信長によって比叡山延暦寺が焼き討ちされた後、その監視などの目的で、家臣の明智光秀は坂本城を築きました。2018年、坂本城跡からは将棋の駒が発見されています。いま放映中の大河ドラマで明智光秀が将棋を指しながら「ひえーざん延暦寺」とか「本能寺、端の歩をつくひまはなし。端歩は心の余裕なり」などとつぶやくシーンが流されると、将棋クラスタ的には受けそうです。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)、『など。

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