【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦で敗北した西軍。石田三成が予想さえしなかった意外な3つの敗因。
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9月15日には、関ヶ原合戦があった。西軍を率いた石田三成は、勝算があって徳川家康に戦いを挑んだが、結局は敗北した。負けたのには理由があり、それは開戦前の三成がまったく予想さえしてなかったことだった。
■理由その1:兵力が劣っていた島津軍と宇喜多軍
西軍に与した諸大名は多数いたが、なかでも島津義弘と宇喜多秀家には大きな期待が寄せられていた。
島津氏は薩摩、大隅などを領した大大名で、宇喜多氏も備前、美作などを支配する大大名だった。しかし、この両者は、ともに共通する難題を抱えていた。それは、家中騒動である。
慶長4年(1599)から翌年にかけて、庄内の乱が勃発した。庄内の乱とは、島津氏とその重臣・伊集院氏との家中騒動である。
乱は容易に鎮まらず、終結には徳川家康の仲介を必要とした。結果、島津家中の弱体化が進み、関ヶ原合戦では軍役に見合った軍勢を送り込むことができなかった。
同じく慶長4年(1599)末から翌年初めにかけて、宇喜多騒動が勃発した。宇喜多騒動も、宇喜多氏と重臣との家中騒動である。
乱はすぐに鎮圧せず、鎮圧に際しては家康が仲裁を行った。結果、宇喜多家中の弱体化が進み、関ヶ原合戦では多くの牢人(浪人)衆で軍事編成を行わなくてはならなくなった。
島津氏も宇喜多氏も西軍の主力と目されていたが、島津氏の軍勢は数があまりに少なく、宇喜多氏の軍勢は牢人(浪人)衆が多くまとまりがなかった。これは三成にとっても大誤算で、西軍が負けた要因となった。
■理由その2:逡巡した挙句、西軍に与した小早川秀秋
小早川秀秋も西軍の主力と目され、東軍の鳥居元忠が籠る伏見城(京都市伏見区)では、大いに軍功を挙げた。
しかし、諸書が記すように、秀秋の心は東軍にあったといわれている。以後も秀秋は本心を隠すかのごとく、西軍に従って戦った。
黒田長政は秀秋の心中を察してか、何とか東軍に引き入れようとした。その結果、関ヶ原合戦の前日の9月14日、秀秋は家康と起請文を交換し、東軍に味方することになったのだ。
合戦当日の9月15日、松尾山に陣取った秀秋は、早朝にはじまった合戦と同時に西軍の陣営に攻め込んだ。
これにより、西軍は大敗北を喫した。秀秋は家康からの「問鉄砲」に驚き、西軍に攻め込んだというが、それは創作であると指摘されている。
■理由その3:前日に寝返った毛利輝元
毛利輝元は西軍の総大将として、かなり早い段階で大坂城に入城した。一方、輝元を支える家臣の吉川広家は、東軍の黒田長政を通して情報を入手し、最後までいずれに与するか考えていた。
一方の輝元の政僧・安国寺恵瓊は、一貫して西軍派だった。広家と恵瓊は、あまり仲が良くなかったといわれている。
広家は東西両軍の情勢を分析した結果、東軍が有利と判断し、輝元に東軍に寝返るよう説得した。
広家の説得は功を奏し、関ヶ原合戦の前日の9月14日、輝元は家康と起請文を交換し、東軍に味方することになったのだ。
合戦当日の9月15日、南宮山に陣取った毛利氏の軍勢は、少しも動かなかった。事情を知らなかった恵瓊は逃亡し、戦いは東軍の勝利に終わったのである。
■まとめ
三成は「西軍が勝つ!」と信じて行動していたが、老獪かつ調略に長けた家康のほうが一枚上手だった。合戦当日、すでに三成は勝利の目はなく、敗北が確定していたのである。