「地元の誇り」愛される地元の菓子店から全国へ ガトーフェスタ ハラダのラスクの美味しさの秘密とは
明治34年の創業時は和菓子屋だった
ラスクの語源はラテン語(スペイン語、またはポルトガル語の説もあり)。「2度焼いたパン」という意味だ。
ラスクといえば思い浮かべるのが、株式会社原田、ガトーフェスタ ハラダのラスクだ。意外なことに、明治34年(1901年)の創業時は和菓子屋だったという。
大好評のラスクと相まって、取材の依頼がとても多く、基本的には受けていらっしゃらないとのこと。原田会長が理事を務めている社会福祉法人主宰の丸茂ひろみ氏が繋いでくださり、ご厚意により特別にお話を伺う機会を頂いた。(お話を伺ったのは、三代目で取締役会長の原田俊一氏、専務取締役の原田節子氏、広報部長の山田真也氏、執行役員で生産本部長の上田孝之氏)
老舗菓子店を継いでパン店に
取締役会長の原田俊一さんは、1929年9月、群馬県高崎市で和菓子を製造販売する「御菓子司原田」の長男として生まれた。初代の祖父、丑太郎(うしたろう)さんは、東京の老舗和菓子店で修業し、開業。丑太郎さんは、常々「菓子屋は、美味しくなければだめ。材料にお金を惜しまないように」と話していたと言う。
俊一さんが生まれた時には既に隠居し、父の卓三さんが店を継いでいた。その父のアイディアで始めたアイスキャンディーの行商は上手くいき、ひと夏で一年分の売り上げをあげたと、俊一さんは語る。
しかし戦争が始まり、砂糖の入手困難から商売が難しくなった。材料を、正規ルートではないところから入手すればできただろうが、真面目な父にはできなかった。そこで始めた商売が、配給パンだった。俊一さんは医者を目指していた。が、俊一さんには4人の弟がいた。どうしても大学進学を諦めたくはなく、父とは半年口をきかなかった。が、最後は父の言う通り、商売を継いだ。
美味しいパン作りの道を追求
俊一さんは、1948年4月、父の卓三さんが社長を務める「新町製菓製パン有限会社」に入社した。職人からパン作りを教わった時には、勘だけで作ることに疑問を感じていた。そのあと、1950年、日本で初めてのパン学校である(筆者注:上毛新聞記事による)日本パン技術指導所(大阪)に3期生として入学、理論からみっちり学んだ。
大阪から戻り、配給のパン屋の商売に戻った。オート三輪を購入して、パンの卸売業を始めた。
ガトーフェスタ ハラダのラスクの原点は、昭和30年代に始めた食パンから作ったものだった
食パンが売れ残ると固くなってしまい、捨てるしかない。もったいない。
そこで、大阪のパン学校の時代にお世話になった、故雁瀬大二郎先生に、どうすればよいかを尋ねた。雁瀬先生は「ラスクがいい」と答えた。
1960年には「原田本店」から「原田ベーカリー」に店名を変更。1973年には、世界のパンを学ぶため、欧州視察団に参加した。特にフランスパンの製法を学んだことは収穫だったそうだ。
上質で高価な原材料にこだわり、風味高いラスクを贈答用に
ラスクを本格的に販売する以前、群馬県藤岡市の得意先が「このラスクをぜひ贈答用で使いたい」と申し出た。それまでの数十年間、ラスクは、細々と袋に入れて売り続けてはいた。ただ、それはメインの商品ではなく、パンの残りからできたものだった。
ギフト需要に応えるラスクを開発するにあたり、お客様に感動を与えられる商品を作ることを念頭に、原材料を徹底的に追求した。一般的なものより2倍以上する値段のバターを使ったところ、風味が格段によくなった。
2000年1月1日、「グーテ・デ・ロワ」(王様のおやつ)新発売
バブル崩壊後、会社の業績に陰りが出てきた。そこで、社運をかけ、ラスクでビジネスモデルの転換をすることに決めた。当時、俊一さんは70歳。長女の節子さんに背中を押された。
名前は「王様のおやつ」という意味の「グーテ・デ・ロワ」。フランス国旗の、青と白と赤のトリコロールカラーのパッケージにした。
地元での評判から全国へと展開
東京都内の物産展に出たこともあり、2000年の中盤には手応えが感じられた。2000年暮れには地元でも評判になった。ここからは、通信販売の売り上げも上昇し、ラスクの製造販売が本格化していった。
「全部売り切ることを誇りたい」
もともとは、もったいないという思いから始めたラスクだが、今では、ラスクのために成分配合した特製の粉をはじめ、高品質な原材料を使っている。ラスクの元となるフランスパンは、生地のロスを無くして生産性を上げるため、独自の考案で作られている。
生産本部長の上田さんは語る。
ガトーフェスタ ハラダの食品リサイクル率は98%。農林水産省の発表によれば、平成28年度(2016年度)の食品製造業のリサイクル率の平均が95%なので、これを上回っている。
また、ガトーフェスタ ハラダは、環境省が策定したガイドラインに基づき、二酸化炭素や廃棄物の排出量削減、省エネの推進、節水といった活動に積極的に取り組み、「エコアクション21」の認証を取得している。
「無理やり店舗に持っていくことはしない」
上田さんは語る。
「ハラダさんは地元の誇り」
今回、取材に同行してくださった、丸茂ひろみさんは語る。
「ハラダさんは地元の誇り。地元の小さなお菓子屋さんからここまで(大きく)なって。地元の高校生もたくさん雇用してくださっている」
「地元の小さなお菓子屋さんがこんなに大きくなった」という話は10年以上前から聞いていた。筆者が14年5ヶ月勤めていた食品メーカーの、国内唯一の工場は、群馬県高崎市にあった。工場勤務の社員は皆、ガトーフェスタ ハラダの歴史を知っていて、「地元のお菓子屋さん」ということを口々に語っていた。
ただ、今回の取材で初めて知ったのは、100年以上前の創業当初から菓子製造に携わっていて、それが形を少しずつ変えながら、脈々と続いてきたということ。初代から、質の優れた原材料を使うことに対し、並々ならぬこだわりを持っていたこと。今でも世界中から美味しい材料を集めて、吟味して使っていること。和菓子屋から始めたパン製造に関しても、勘だけでなく、理論と技術の双方を学び、質が高く味の良いパンを生み出してきたこと。ラスクは、つい最近思いついて始めたものではなく、実はその芽が60年以上も前に生まれていて、ラスク作りを地道に続けて来られていたこと。
何より、食品を製造する企業として、「作ったものを売り切る」ことを誇りに思っていることには感銘を受けた。たとえ食品が工業生産になったとしても、質の良いものを作って売り切るという、商売として当たり前のことをきちんと貫いている。
いまの世の中、そうでない食品関連企業が少なくない。売り上げさえよければ、という数字ありきの考え方。売り逃しのないよう、欠品しないよう、たくさん作ってたくさん棚に並べておいて、売れ残れば容赦無く捨てる。そこに、商品に対する愛情はあるのだろうか。
「お客様に幸福感を味わってもらいたい」
俊一さんは、今は会長となり、現在は、長女の節子さんの夫である義人さんが社長を務めている。節子さんとともに、ハラダのラスク事業をここまで牽引してきた。
節子さんは語る。
俊一さんも語る。
「一年、二年でなく、20年後、30年後の視線で見ている」
ガトーフェスタ ハラダには、大手食品小売業の複数社から、ぜひ卸して欲しいという依頼が何度もきているそうだ。節子さんは、量販店等に商品を出していない理由として
と語っている。
2013年11月7日付の上毛新聞の連載記事で、俊一さんは、ここまでの成功の理由として「作り手の思いに加え、店が長年かけて築いた信用、ラスクという商品が客に与える感動がプラスアルファとして働いたのではないか」と答えている。
食品に携わる全ての企業に、ガトーフェスタ ハラダの製品作りにかける信念と堅実さ、そして食べ物を世の中に生み出す企業として、真摯な姿勢とまっとうな精神を見習って欲しいと、心から願っている。
取材日:2018年8月8日
参考記事:2013年10月9日〜11月8日 上毛新聞社「心の譜」連載記事