国産スキーメーカー「オガサカ」はなぜ生き残り、どう新しい文化を作っていくのか
90年代、「私をスキーに連れてって」がスキーブームに火をつけたとき1,800万人を超えていた日本のスキー人口は、現在スノーボードを合わせても800万人を切っていると言われている。
しかし、間もなく始まる平昌、そして2022年北京と、2大会連続で冬季五輪がアジアで行われ、アジアのスキー人口は大きく増えることが見込まれている。中国政府は、北京五輪をテコに、将来は中国のスキー人口を3億人まで増やしたいと考えており、中国国内には2016年の時点で既に600を超えるスキー場があり、同年のスキー場訪問人数は1500万人を超えたとされている。
近年北海道ニセコや長野県白馬村に押し寄せる外国人スキーヤーの数が証明しているように、日本の天然の雪は海外で高く評価されており、人工雪で固められたゲレンデがほとんどの中国にとって、喉から手が出るほど羨ましい観光資源であることは明らかだ。
最盛期に30以上あったとされる国産のスキーメーカーは市場の縮小とともに淘汰され、いま日本で自社工場を持つメーカーは2つしかない。
今回のインタビューは、その2つのうちのひとつ、長野県の、オガサカスキーの小賀坂道邦 社長。スキーブーム、外国産スキーの大量輸入によるメーカーの淘汰、スノーボードの登場など、多くの波に直面してきた国産スキーメーカーは、どのようにしてそれらを乗り越え、また少子高齢化や中国市場のポテンシャルといった新しい事業環境をどのように捉えているのだろうか。
小賀坂 道邦
株式会社小賀坂スキー製作所 代表取締役社長
世界でも珍しい、スキー・スノーボードを専門に製造・販売しているメーカー、オガサカスキーの三代目社長。「オガサカスキー」、「ブラストラック」、「ノベンバースノーボード」などのブランドを自社工場で生産している。
マニアックなニーズに応え続けてブランドを上げた
後藤:オガサカスキーは自社工場があるスキーメーカーとしては、いまも残っている数少ない会社ですよね。
小賀坂:昭和から存続しているスキーメーカーは、青森のブルーモリスさん、長野の飯山市にあるスワロースキーさんくらいでしょうか。スワロースキーさんは主に中国の大連の工場で生産しているので、国内で製造して展開しているメーカーは本当に少なくなりました。
いまは、小売店の店頭に並ぶスキーの95パーセントは海外ブランドです。
昭和60年台(1985年〜)「私をスキーに連れてって」の映画がきっかけでスキーブームになって、海外から大量にスキーが輸入されました。それまで70万台くらいだった輸入スキーが、1991年ごろのピークには約230万台輸入されていました。国内メーカーの生産量と合わせると約300万台が日本で売られていたということです。(筆者注:このころ世界のスキーの2/3が日本で販売されていた)
その後バブルがはじけて、スキーが安く乱売されるようになりましたが、オガサカスキーは、そのときも価格を維持していました。
後藤:なぜオガサカは価格を下げなかったのでしょうか?
小賀坂:オガサカのスキーは、性能と品質を維持するために、創業以来とても時間のかかる製造方法を取っています。
創業当時は単板で1枚の板を削って曲げていましたが、現在は合板スキーといって、複数の種類の木を重ねて作った芯材をスキーの形に削るわけです。耐久性があって、狂いのないスキーを作るためには木材を厳選しないといけない。私たちはブナのような広葉落葉樹を主に使っているので、針葉樹と違って、まっすぐ木目が通っている木を選ばないと良いスキーが作れません。それを1年から2年天然乾燥し、人工乾燥し、それからスキーの形にしていくので、お客様にスキーを買って頂くのは木材を仕入れてから3年目。どうしてもコストがかかってしまいます。
後藤:工程を削ってコストを下げた商品を作ることもできたと思いますが……。
小賀坂:私どもも、最盛期は需要に生産が間に合わなかったものですから、下請けを使って作らせてみたこともありました。だけど出来上がったスキーを見たら、とてもオガサカのブランドをつけて売ることはできなかったですね。オガサカは、維持しなくてはいけない性能と品質を持っています。それを崩してまでやるものではない、と当時は思いました。
よく、「ブランドを上げるために何をしてきたんですか」と聞かれますが、ブランドを上げるためにしてきたことはありません。オガサカのお客様はマニアックな方が多いので、そういう方の需要を満たすことを考えて、使ってくださるお客様が「よかった。次もオガサカにしよう。」と言ってくれるものを作ってきただけです。結果として、ブランドが維持されてきたんだと思います。
スキーは、ぐるっとプラスチックで表面を覆って仕上げてしまえば、中に何を使っているのかはわからない。我々は、お客さんに対して「良心的なスキー」を作っていこうと考えています。
スキーの先生に頼まれてサーフボードを開発
後藤:「マニアックなお客様のニーズを満たす」とおっしゃっていましたが、スノーボードも1985年から作っていらっしゃいますよね。スノーボードが五輪の正式競技になったのが1998年ですから、10年以上も前です。まだ目の前のお客さんにはっきりとニーズが無いものも積極的にトライされているように思えます。
小賀坂:私どものお客様はスキー学校の先生が多いですが、スノーボードはその先生たちに頼まれて作りました。
スキー学校の先生の中には、夏にサーフィンをやっている人たちがいました。そういう方に頼まれて、サーフボードを作っていたことがあるんです。
後藤:サーフボードですか。(笑)
小賀坂:はい。全部手作業で、厚いウレタンを削ってアクリル樹脂を貼り付けて、7万円くらいの価格で売っていました。性能は評価されていたんですが、3シーズンくらい経ったところで、台湾から3万円くらいの商品が輸入されはじめて、どうしてもコストが下げれなくて作るのをやめてしまいました。
ただ、我々のサーフボードを使ってくださっていたスキー学校の先生たちが、今度は冬場になると、「スノーサーフィン」とか言ってサーフボードでそのまま雪の上を滑っていたんですね。それで、オガサカでも作ってくれないか、と話を持ちかけられて、スノーボードをつくりはじめました。
ちょうど、アルペンスキー以外の商品にも事業を広げないといけないと思っていましたから。
スノーボードの他にも、三輪車の車輪を板にして雪の上を滑るようなものを作ってみたこともありましたね。
当時、スノーボードはスノーボード専門のメーカーさんしか作っていなくて、スキーメーカーとしてやっていたところはありませんでした。作りはじめて3年経った1985年に正式に商品化しましたが、なかなか売れませんでした。スノーボードの大会関係者に「スキーメーカーが作るのはルール違反ではないか」と言われたり、売れないので、社内でもやめようと言われたこともあったんですが、「やり始めたんだからちゃんとやろう」と言って、細々と続けていました。
そしたら、1995年ごろ急に売れはじめたんです。技術開発をやめなかったおかげで、急な需要に対してもすぐ対応できました。
後藤:売れなかったのに作り続けた理由は何だったのでしょうか?
小賀坂:一番のお客さんであるスキー学校の先生方が、我々の作ったスノーボードを使い続けてくれていたからですね。
戦時中、オガサカはスキーを作っていませんでしたが、他のメーカーさんには生産を続けていたところもあって、終戦後、我々が遅れて生産を再開したときにはそういったメーカーさんに市場が占拠されていました。
でも、オガサカがまたスキーを作り始めたと聞いて、戦前ひいきにしてくれていた人たちが「俺たちのスキーを作ってくれ」と注文してくれたんですね。そういったマニアックなお客さんの要望やクレームを聞いて、改善を加え、喜んでもらって、満足してもらって、次も指名してもらえるだけのものを作らないといけないという考えが、オガサカの原点にあるんです。
スキーは道楽
後藤:スキースクールの先生からの細かくてシビアな要求をコツコツ製品に反映させていくところと、サーフィンまで作ってしまう遊び心が両方あるところがおもしろいですね。
小賀坂:スキー・スノーボードは道楽だし遊びの道具じゃないですか。私は雪の上を滑るものならなんでも作ろうよ、というくらい柔軟に考えています。(笑)
私が社長になったとき、スキーメーカーの社会的な存在意義を考えまして、社訓を「スキー・スノーボードを通じて、人々に喜びと潤いと健康をもたらすお手伝いをする。」というものにしました。それまではとにかく「お客さんが満足するものを作る」と、ものづくりだけに集中していましたが、それだと町のスキー工場にしかならないじゃないですか。
後藤:カタログに、「1日でパラレルターンができるようになるスキー」というコンセプトの、「ヨーイドン」という初心者向け商品がありました。こういうものはお客さんの声をただ聞いているだけでは生まれないですよね。
小賀坂:「ヨーイドン」は私が名前を決めました。これから始めるんだから、長さも 123cmで「イチ・二・サン」と。(笑)
もともとは、海外のブランドが導入用のスキーということで日本に持ち込んでいたのを、スキー学校の先生が見せてくれたんです。でも、どうもそれを使っても初心者がうまくならないと言っていたので、それならうちでそれ以上のもの、「初心者が 1日でパラレルターンできるようなスキー」を作ろうと。
スキースクールからの要望があったわけではないですが、そういう情報を社員が聞きつけたんですね。
これからスキーを始めようという人のためのスキーで、修学旅行の学生が使ってくれたり、北海道のスキー場の支配人さんが、「海外のメーカーのと比べたけどオガサカのものが一番いい」と買いに来てくれたこともありました。
新しい世代のスキー
後藤:スキー場も少子高齢化が進んでいますし「ヨーイドン」のようなスキーが売れるかどうかは、スキー業界の将来を考えてもとても重要ですよね。
日本の若い人を取り込むのももちろんですが、中国で新しくスキーを始める人が急増していて、初心者用スキーはこれから大きなニーズがあるのではないかと思います。
小賀坂:中国でスキーをする人は相当増えています。中国の人は、手頃な丘と水があれば、人工雪を作る機械でスキー場を作ってしまいますからね。
大連のスキー場を視察に行きましたが、リフトは2本だけ。1本は100mくらいでもう一本は300mの「小高い丘」でした。そういうところで滑るお客さんは、「なにやらスキーっていうのがあるらしいから、ちょっとやってみようか」という感覚で、道具も全部レンタル。リフト券に料金が含まれています。
スキー場というよりは、遊園地のアトラクションに近い感覚でスキーをしていますね。
日本で言うところの、「スポーツとしてのスキー」をするには圧雪されたゲレンデが必要ですけども、きちんと整備されていて、本格的に競技をやれるようなスキー場は、600あると言われているうちの20か30くらいだと思いますね。
後藤:スマホゲームとか、映画・音楽、いま若い人にはスキーよりもずっと手軽にできる娯楽が無数にあります。数時間かけて移動して、10万円を下らない道具を買って遊ぶスタイルが何十年も当たり前だったスキーが、これから日本や中国の若い顧客にどうやって受け入れてもらうのかは大きな課題ですね。これは釣りやゴルフなど全てのアウトドアスポーツに共通の課題だと思います。
小賀坂:実は、ここ3年くらい、子供用のスキーの売り上げが伸びています。団塊世代・団塊ジュニアの世代が、子どもや孫をスキーに連れて行こうとしているようですね。
若い層をスキー場に引っ張ってくる方法はメーカーとしても模索していかないといけませんが、我々だけでは解決が難しい課題です。ゲームで育った子どもたちをアウトドアに連れてくるのは、もしかすると大きな世の中の流れを作っていかないとだめかもしれませんね。
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