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東京では想像がつかない能登半島被災地の現状ー現地の書店の取り組みは感動的だった

篠田博之月刊『創』編集長
能登半島珠洲市には至る所に地震の爪痕が(筆者撮影)

東京にいては想像がつかない能登半島の現状

 現場に足を運ばないと状況はわからないとよく言われるが、8月下旬に能登半島の被災地を回ってそのことを痛感した。地震があってからもう半年以上過ぎて、東京ではもう過去の話であるかのように思われているが、実際に現場に行ってみると全くそうではなかった。

 特に震源地に近い珠洲市は、地域によっては街の住居のほとんどが倒壊し、2階建ての1階が押しつぶされている家がたくさん目に入った。これだけの大きな被害になると、手のつけようがないという状況なのだろう。

 能登の被災地を訪れたのは、月刊『創』(つくる)7月号に、珠洲市在住のライター落合誓子さんのレポートを載せたのがきっかけだった。記事を読んだり話を聞いたりするうちに、現場へ行ってみたいという気持ちになった。

地震で倒壊した珠洲市のいろは書店(今は更地に)落合誓子さん撮影
地震で倒壊した珠洲市のいろは書店(今は更地に)落合誓子さん撮影

 その気持ちを強めたのはもうひとつ、その落合さんの住居の近くで仮店舗を開いた「いろは書店」の存在もあった。落合さんの記事が載った7月号を最初は50冊注文いただき、お店で大きく展開してもらい、20冊の追加もいただいた。

 元の店舗は倒壊し、タクシー会社の車庫だったスペースを借りて仮店舗を3月にオープンさせたのだが、固定電話はつながらないので、携帯電話で出版社に電話をするなどして雑誌や書籍を揃えているという。仮店舗の棚やパーテーションは、店主の八木久さんの息子さんがホームセンターで買った板を使って自ら作っているという。

 甚大な被害を受けながらも、そうやって迅速に書店を再開させたのは、ひとつには3月21日までに高校に教科書を届けなくてはいけないという事情があったからだ。何としてでも書店を再開させたいという思いやプロ意識が、同業者として素晴らしいと思った。

 書店は出版社と読者との間をつなぐ最前線で、書店が力を発揮することで読者に本や雑誌を届けることができる。被災地で書店がどうしているか、ぜひ現地へ行ってみたいと思った。

仮設住宅で営業を続ける大下書店の話に感動

 輪島市でも大下書店という老舗の書店が全壊したことがSNSで伝えられていた。全壊した書店の姿は衝撃でもあった。もともとの固定電話はもちろんつながらないのだが、店主がどういう思いでいるのか、現場に行って話を聞きたいと思った。

 能登空港から落合さんの運転する車に乗せてもらい、輪島市から珠洲市へ、さらに住民の反対運動で頓挫した珠洲原発の建設予定地などへも連れていってもらった。道路は整備されつつあるとはいえ、珠洲市の街中に入ると、道路の端が壊れていたり、マンホールが隆起しており、地元の慣れた人でないと安全運転は覚束ない状況だった。

 輪島市の中心部にあった大下書店の場所は、最初わからずに通り過ぎてしまった。SNSに投稿された写真では「大下書店」という青い看板が倒壊した建物と一緒に写っていたのだが、看板ははずされていた。恐らくこの場所だろうと思われた倒壊した建物の前でそこにいた人に訊くと、「ああ、ここには確かに本屋さんがありましたよ」という返事だった。

 1階が押しつぶされており、看板もはずされているので、近隣の人でないと、その建物が大下書店だとわからないかもしれない。

倒壊した輪島市の大下書店(筆者撮影)
倒壊した輪島市の大下書店(筆者撮影)

 隣家の人に聞くと、書店を切り盛りしていた店主と母親は仮設住宅に移っているという。今は廃線となったため駅舎だけが残された輪島駅近くの仮設住宅に足を運んだ。美しい駅舎はそのまま観光名所として残されていたが、その案内所に聞いても、仮設住宅に入っている人については管理人もおらず、誰がどこにいるのかわからないという。

 ちょっと途方に暮れたが、やはり地元住民の強みを生かしてか、あるいはジャーナリストの直感ゆえか、落合さんが大下書店の店主が住んでいる住宅番号を、付近の人に聞きあてた。「こんにちは~」と訪ねると、母親らしき女性が応対してくれた。東京から来て、書店の話が聞きたいのだと説明しているうちに、店主である大下克司さんがバイクに乗って帰ってきた。忙しいとのことなので、仮設住宅の前で話を聞いた。

 大下書店は当初の個人経営の時期を含めると創業100年の老舗で、今は3代目なのだという。店舗は3軒あったが全て地震で全壊したという。しかし、驚いたことに、仮設住宅で生活しながら、本や雑誌を仕入れて配達する書店業は今も続けているという。

「もともと売り上げでいうと外商が多かったのです。学校へ教科書を納めたり、図書館に雑誌を届けたりといったことは、今も携帯を使ってやっています。書籍や雑誌は何日かまとめて金沢市のトーハンから宅配便で送ってもらい、私が届けています」

 感動的な話だった。確かに、毎年、教科書を学校に届けるということを続けていれば、地震で店舗が倒壊しても子どもたちのために何とかしないわけにはいかない。仮設住宅で生活しながらも書店はそのまま続けているというわけだ。

 倒壊した店舗の写真がSNSにあがっていたのを見たと話すと、こう語った。

「あの写真は私でなく誰かがあげたのです。やめてほしいと言ったのですが、あげられたままだったので、店の看板をはずしました」

 写真をアップした人も「胸がつぶれそうだ」と書いていたから、決して面白がって投稿したのではないと思う。しかし店主の大下さんにすれば、大切な自分の書店が全壊した姿がSNSで拡散されているのはあまりにつらかったのだろう。「大下書店」という看板が目立っていたのを自ら取り外したというわけだ。

 ここに掲載した現地の写真も、当事者にとっては辛いものかもしれない。ただこうした現実を多くの人に知らせること、そういう現場でも感動的な努力を続ける人たちがたくさんいるのを多くの人に知ってもらうのはとても大切なことだと思う。

輪島塗老舗・五島屋のビル倒壊現場(筆者撮影)
輪島塗老舗・五島屋のビル倒壊現場(筆者撮影)

 輪島塗老舗・五島屋のビル倒壊もニュースで大きく報じられたが、倒壊したビルを笑いながらスマホで撮影している人がいて傷ついた、と関係者がコメントしていた。倒壊したビルの下敷きになって亡くなった人もいるし、深刻な状況は続いている。当事者の思いを考えると本当に胸が痛む。ただ、こういう現実が続いていることを知ってもらうのもメディアの大事な役割だと思う。

3月21日に営業再開したいろは書店仮店舗

 さて次に珠洲市へ移り、いろは書店の仮店舗で話を聞いた。店主の八木久さん(83歳)と息子の淳成さん(50歳)お2人の話を紹介しよう。

今は更地になったいろは書店店舗跡(筆者撮影)
今は更地になったいろは書店店舗跡(筆者撮影)

八木久 地震があったのは1月1日でしたが、第一にひらめいたのは、3月には教科書を売らなきゃならないということでした。息子も避難所に一緒にいたので、仮店舗をどこに置くか、いろいろ検討したのですが、たまたま近くのタクシー会社の車庫が空いていたので借りることにしたのです。持ち主が息子の中学時代の先生で、それまでも芸術祭の会場に使われたりしていたので、避難所からすぐ電話しました。

 それまでのお店は倒壊して、置いてあった本は全てダメになってしまいました。日販さんに連絡したら、それはこちらで面倒見ますからということでした。教科書も既に仕入れて2階に保管してあったのですが、石川県教科書販売所が新たに送りますと言ってくれました。それぞれすごい早く対応してくださったので助かりました。道路は支援物資優先だったので一般の運送会社は使えず、日販は支店長がご自身の車で運んでくれました。

八木淳成 地震でお店が倒壊して固定電話も通じなくなったのですが、出版社さんなどからはSNSにメッセージが届いてつながるようになりました。

久 お店を再開するという話は、1月の中頃には連絡を始めました。3月21日には例年教科書を販売しているので、それまでには何とかオープンしたいと思ったのです。仮店舗は面積が前のお店の半分近くになったので、全部の商品を揃えることはできず、被災地で売れるようなものを中心にしました。棚やパーテーションは息子が一から全部作りました。

淳成 もともとDIYは好きでやっていたのですが、ここまで本格的なのは初めてですね。

久 仕事というより息子は楽しみながら作っている感じですね(笑)。

いろは書店仮店舗(筆者撮影)
いろは書店仮店舗(筆者撮影)

――その作業を動画に撮ってYouTubeにあげてますね。

淳成 YouTubeは初めてで、友達に教えてもらいながらやっています。これも楽しいですね。今は能登のテーマソングを作っていて、これもYouTubeにあげる予定です。

――地震の後は遠くからも問い合わせがあったりするのですか。

淳成 たまたま昨年10月、集英社さんが『暗号学園のいろは』というコミックの第4巻でイベントをやってくださったのです。主人公が「いろは君」というのですが、クイズに答えて進んでいくとゴールが「いろは書店」なのですね。そのイベントの後、ファンが全国から来るようになりました。

『暗号学園のいろは』は原作が西尾維新先生で作画が岩崎優次先生、最初にゴールした人には作家さんのサイン入り色紙が渡されたんです。店は8時半に開くのですが、最初にやってきたファンは夜中の2時半に着いたと言ってましたね。ゴール前日の昼から問い合わせの電話が鳴りっぱなしでした。

 地震の後、3月に出た『暗号学園のいろは』第6巻の巻末には岩崎先生が描いた「いろは書店」の以前の店舗のイラストが掲載されました。

 講談社さんの『スキップとローファー』という、珠洲が舞台のコミック作品もあるのですが、その作者の高松美咲先生と講談社も能登支援の企画をやってくれて、ファンの方がよくいらっしゃっています。

――息子さんはいつからこのお店を手伝っているのですか?

淳成 私は結婚して妻の実家である栃木県に家族と住んでいたのですが、6年前から珠洲に戻って、いろは書店を手伝うようになりました。

久 本屋を手伝うというより、祭りが好きなんでこちらへ来たんです(笑)。祭りを続けたいという目的なんです。

――仮店舗では文具も一緒に売っていますが、これは前からだったのですか?

久 文具は父親の代から扱っており、これも学校関係に納めてきました。そのほかカフェもやっていたのですが、これは今、再開の準備中です。

――1月に地震でお店が倒壊しながら3月に仮店舗で再開というのは、お客さんたちも喜んだでしょうね。

久 最初に買いに来てくれたのは子どもたちでした。あそこに行けば絵本が買えるということでお母さんと子どもが来てくれました。

 今、小学校と中学校は教科書が無償なのですが、高校は珠洲にひとつしかないのです。以前はもう1校あったのですが、生徒数が減ったのですね。しかも地震で避難した家族もあって、今年はさらに減りました。その飯田高校への教科書販売も無事に間に合いました。

いろは書店仮店舗。奥が八木久さん(左)と淳成さん
いろは書店仮店舗。奥が八木久さん(左)と淳成さん

――店が全壊しながら3月に仮店舗で営業再開というのは奇跡的ですよね。

淳成 その仮店舗も一から作りましたからね。

――いろは書店は歴史の長い老舗ですが、いつ頃から営業をしていたのですか?

久 私の父親は学校の先生だったんです。それが終戦後の昭和27年かな、先生を辞めて本屋を始めたのです。その時から教科書販売も一緒にやってきました。

 私が店を手伝うようになった頃は、今のように過疎化という問題はなかったし、子どもたちもたくさんいました。当時は百科事典とか文学全集が売れた頃で、店頭販売よりも外商で売り上げをあげてましたね。都市部には大型書店があちこちにできるようになりました。いろは書店も一時は、金沢にもお店を出すなど3店舗を持ち、従業員さんも20人くらいいました。本屋さんがブームと言われた時代でしたね。

 でも私と妻がずっとやってきて、その後は私らの代で終わるかなと思っていました。息子が戻ってくると思っていなかったものですから。

淳成 私は妻と長女と6年前に戻ってきたのですが、その後、2人目3人目の子どもが生まれて、妻は里帰り出産で実家に帰り、私は行ったり来たりの生活になりました。今年も正月明けには妻のところへ行く予定でしたが、1月の地震で今のようなことになってしまいました。

――YouTube配信の影響もあって、いろは書店は全国に知られるようになりましたね。

久 確かに沖縄の本屋さんからお見舞いが送られてきたりしています。

長崎県の高校の新聞部から送られた壁新聞(筆者撮影)
長崎県の高校の新聞部から送られた壁新聞(筆者撮影)

淳成 長崎県の高校の新聞部の生徒さんたちからは、お見舞いと一緒に壁新聞が送られてきました。取材をしたいという連絡があって、電話で取材を受けたのですが、何か答えるたび歓声が沸くんですね。こんにちはと言っただけで電話の向こうでキャーという歓声があがっていました。送られてきた壁新聞はお店の壁に飾ってあります。

久 来年には元のお店と同じ形で再開する予定ですが、問題はこれからですね。

いろは書店店内には地元や震災を特集した雑誌が(筆者撮影)
いろは書店店内には地元や震災を特集した雑誌が(筆者撮影)

出版界全体の支援も始まっている

 この7月、出版界全体として能登半島の被災地に支援を行う取り組みも動き出している。

 小学館社長室の三浦和也ゼネラルマネージャー(GM)に話を聞いた。

「東日本大震災の際には出版界として〈大震災〉対策本部を発足させ、現地視察をしたうえで図書寄贈や図書カード寄贈など被災地の読書環境支援を10年間行ってきました。今年1月1日に発生した令和6年能登半島地震を受けて、まず現地の状況を実際に見るべきであろうと、当社の相賀昌宏会長を中心に出版関係者計15名が7月19・20日に、輪島市と珠洲市の視察を行いました。

 事前に日本出版クラブの中に震災対策室を新たに設置。その最初の取り組みとして、被災地の書店や図書館を訪問し、珠洲市の泉谷満寿裕市長らに面談し、現在の状況や、今何が必要かといったお話をうかがってきました」

 現地視察には集英社の堀内丸恵会長(現取締役相談役)も加わっていたという。その視察を受けて、8月には本格的な支援の動きが始まった。三浦GMの話を続けよう。

「8月19日には震災対策室に能登半島地震の支援のための運営委員会を設け、これから具体的に支援に動こうとしている段階です。小学館の相賀会長を委員長として、出版社社員、出版団体職員が委員となり、現時点では日本出版クラブの和田功事務局長と講談社の藤田康雄社長室部長、小学館社長室の中嶋健エキスパートマネージャー(EM)と私の4人が事務局を務めています」

 具体的にどういう支援が行われることになるのか。

「本格的な活動はこれからですが、目的としては、被災地の読書環境整備への支援、?被災地の子どもたちの夢の実現のための支援、を掲げています。

 活動基本方針としては、被災地のニーズおよび状況を把握して、それに即した支援を行っていくこと。また、現地を視察して痛感しましたが、首都圏に勤務在住していると能登半島地震は過去の話と思ってしまうかもしれませんが、実際には今も多くの被災者の方々が困難な状況にあり、復旧復興に向けた懸命な支援が続けられています。そうした状況を出版界内外に発信していくことも大事なことだと考えています。

 現在、最初に進めようとしている支援は図書寄贈です。7月の現地視察の際に仮設住宅の集会所に本を置いてもらえないかというご要望をいただいております。どれぐらいの規模の集会所にどれぐらいの本が必要なのか、聞き取りを行い、受け入れ態勢を確認しながら、進めていこうとしています」

 どういう本をどういう方法で仮設住宅の集会所に置くか、東京から送るのか、現地書店を通じた購入という形にするのかどうかなど、具体的なことについては検討を進めている最中だという。

 出版クラブには大手出版社以外に、日本書籍出版協会(書協)、日本雑誌協会(雑協)などの業界団体も加盟しており、その震災対策室は業界全体として新設されたものだ。今回のきっかけは能登半島地震だったが、今後、南海トラフ地震などが発生した場合も、ここが業界の対応窓口になる予定だという。

『図鑑NEO』寄贈など個別の支援策も

 さて、いろは書店のインタビューで、集英社の『暗号学園のいろは』と講談社の『スキップとローファー』の話が出ていたが、小学館のコミックでも『君は放課後インソムニア』の舞台が石川県七尾市だということで支援の取り組みが行われた。実写とアニメとマンガをつないだ映像を作って義援金など支援を呼びかけたという。

 大手出版社の個別の取り組みについても補足しておこう。

 例えば小学館ならではの取り組みとしては、能登の小学校への図鑑や学習まんがが寄付されたという。

「4月に輪島、珠洲、能登、穴水の奥能登4市町の全小学生1266人に『図鑑NEO』をプレゼントし、各小学校に『学習まんが日本の歴史』全20巻セットを寄贈しました」(三浦GM)

『図鑑NEO』は、小学1年生には「動物」、2年生には「昆虫」、3年生には「危険生物」、4年生には「恐竜」といったふうに学年ごとにタイトルを分けたという。

「そのほか、一時は雑誌配送の遅れや購入できない地域が発生したことから、2月から3月にかけて『少年サンデー』系の電子版を無料公開しました」(同)

 コミック電子版の無料公開などは他の出版社でも行われた。一時期、被災地への配送が困難になり、雑誌を届けることができなくなったためだ。

 講談社の場合、1~2月に『週刊少年マガジン』『別冊少年マガジン』の電子版を無料公開。集英社も『週刊少年ジャンプ』などを無料公開した。

 前述した『スキップとローファー』については、3月22日発売の第10巻で特装版を発売し、収益を石川県に寄付している。集英社も能登半島地震災害支援募金を行った。

 また今村翔吾さん、小川哲さん、加藤シゲアキさんの3人の作家が呼びかけて講談社から復興支援のための本を出版し印税を寄付する計画も発表されている。そのほかにも個々の作家による支援の取り組みが行われている。

 さらに本格的な支援は、まだこれからだ。

https://www.tsukuru.co.jp/

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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