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野茂、古田らと戦った台湾の名将が史上初の通算1000勝を達成

横尾弘一野球ジャーナリスト
2008年の北京五輪をはじめ、洪一中は代表チームでも要職を歴任している。(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

 台湾プロ野球(CPBL)の一軍に今季から参入した台鋼ホークスは、5月15日の楽天モンキーズ戦に5対0で快勝したが、この試合で洪一中監督はCPBL史上初の通算1000勝を達成した。1988年のソウル五輪をはじめ、アマチュア時代から日本とも切磋琢磨してきた洪一中監督の素晴らしい功績に、日本の野球関係者も祝福の声を上げている。

 1961年生まれの洪一中は、中国文化大から中華民国空軍野球部を経て、兄弟飯店棒球隊へ入団。台湾にはまだプロ野球がなかったが、強打の捕手として実績を上げ、1988年のソウル五輪にはチャイニーズ・タイペイ代表の司令塔として出場する。

 予選リーグでは日本と同じB組に入り、第2戦で対戦すると、延長13回に及ぶ死闘を演じる。六番キャッチャーの洪一中は、先発の野茂英雄ら日本の投手陣から2安打を放ち、陳義信(元・中日)や郭建成(元・ヤクルト)ら投手陣を好リード。3対3で延長に突入した試合は、13回裏に古田敦也のサヨナラ安打で決着した。当時、日本代表監督だった鈴木義信氏は、「どちらに軍配が上がってもおかしくない展開。我々は、洪一中捕手のクレバーなリードに苦しめられました」と振り返る。

 1990年には台湾プロ野球が発足し、兄弟飯店棒球隊は兄弟エレファンツ(現・中信兄弟エレファンツ)として参入。28歳でプロ選手となった洪一中は2002年まで13年間プレーし、ベストナイン6回、ゴールデングラブ賞7回、1993年には台湾シリーズMVPに輝く実績を残した。

 そんな名捕手は、2004年にLa Newベアーズでバッテリーコーチに就くと、シーズン途中から監督に。2006年には早くも台湾王者となり、アジアシリーズでも準優勝に導いた。そうして、着実に指揮官としての手腕を磨き上げる一方で、2008年の北京五輪ではヘッドコーチを務めるなど、チャイニーズ・タイペイ代表にも貢献。2015年の侍ジャパン強化試合からは、チャイニーズ・タイペイ代表の指揮も執っている。

 2019年には、La Newの後継であるLamigoモンキーズで3連覇を成し遂げ、CPBLを代表する名将としての地位を築き上げる。さらに、2020年から2年間は富邦ガーディアンズを率いた。そうして、2022年に台鋼の新規参入が内定すると、翌2023年には監督に就任。昨年は二軍リーグやアジア・ウインター・ベースボールに参戦し、今季から一軍で戦っている。

5月17日の本拠地での統一セブンイレブン・ライオンズ戦の前には、通算1000勝を祝うセレモニーが実施された。右から2人目が洪一中監督(筆者撮影)。
5月17日の本拠地での統一セブンイレブン・ライオンズ戦の前には、通算1000勝を祝うセレモニーが実施された。右から2人目が洪一中監督(筆者撮影)。

 既存の球団から分配ドラフトで選手を獲得し、昨年末にはトライアウトも実施した。日本でもプレーした王柏融(元・北海道日本ハム)ら実績のある選手も加わったものの、30試合を終えた時点で9勝21敗の最下位と苦しんでいる。そんな中で、洪一中監督がLa New時代から長く指揮した楽天の本拠地で、通算1000勝という偉業は達成された。台鋼の若い選手たちは試合を重ねるごとに力をつけており、そこに洪一中監督の堅実で緻密な野球が浸透すれば、チームも選手も着実に進化するはずだ。

「自分は幸せな人間だと、ずっと思っている。時代は変化し続けているだけに、常に学び続けている」

 自身の道のりをそう表現した洪一中監督は、これからも台湾の野球を力強く牽引していくだろう。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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