大坂夏の陣前夜、なぜ織田有楽は大坂城を退去したのか。真相を探る
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今年は有楽斎没後400年ということもあり、京都文化博物館で特別展「大名茶人 織田有楽斎」が催されている。ところで、大坂夏の陣前夜、なぜ織田有楽は大坂城を退去したのか考えることにしよう。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣を控えて、豊臣方の重臣・織田有楽(信長の弟)が大坂城を去った。前年の大坂冬の陣終了後、有楽は徳川方との和睦の条件として、自分の子を人質として差し出した。豊臣方の功労者の一人でもある。
しかし、有楽は豊臣方を見捨てたとされ、後世に至るまで裏切り者のレッテルを貼られることになった。後世に成った史料では、有楽があたかも徳川方のスパイであるかのように書いたものもある。有楽は、なぜ大坂城を退去したのであろうか。
有楽が大坂城を去ろうと決意したのは、慶長20年2月26日にさかのぼる(『駿府記』)。有楽は使者の村田吉蔵を徳川家康がいる駿府に遣わし、「大坂城を出て京都か堺あたりに引き籠りたい」と申し出た。
同年3月28日、有楽は後藤光次に宛て「私は上意に任せて未だ大坂城におりましたが、ここにおりましても私の献策は取り入れられません。早々に大坂城から退くことを執り成しいただきますよう、本多正純様に申し入れました」という内容の書状を送った(『譜牒余録』)。
書状の「上意」とは、家康あるいは秀忠の意向である。有楽は幕府の意によって、大坂城にいたのである。有楽は、家康から大和国に3万石を与えられたので、徳川方に仕えていたのは事実である。
かつて、有楽は徳川方のスパイと考えられていたが、実際は徳川方から豊臣方に送り込まれた付家老のような存在だった。しかし、有楽は徳川方のスパイではなく、和睦に取り組む姿を見ると、豊臣方に尽くしたのは明らかである。
当時、2人の主君に仕えることは、珍しいことではなかった。大坂の陣の原因を作ったとされる片桐且元も、有楽と同じ立場だった。有楽が苦しんだのは、豊臣家中が和睦派と徹底抗戦派に分かれていたことだった。
有楽は和睦派と徹底抗戦派の狭間で、すっかり浮いた存在となり、何を言っても聞いてもらえなくなった。それゆえ有楽は、豊臣家における存在価値を見いだせなくなり、家康に大坂城からの退去を申し出たのである。