【江戸漂流記】漂流と世界一周を越えて!善六の波乱に満ちた人生と異国での最期
明和6年(1769年)、仙台藩領石巻に生まれた善六の人生は、寛政5年(1793年)の冬、一艘の若宮丸が暴風雨に飲み込まれる瞬間に大きく変わりました。
江戸へ向けて出帆した16名の乗組員を乗せた若宮丸は、塩屋埼沖で操舵不能となり、その後7か月間漂流。
寛政6年(1794年)5月、アリューシャン列島の島に漂着しました。
漂着後、現地のアリュート人に助けられた一行はロシア本土へ向かい、セントポール島やアムチトカ島を経て、寛政7年(1795年)には極東の都市オホーツクへと辿り着きます。
ここで漂流民たちは3つのグループに分けられ、善六は辰蔵、儀兵衛とともに最初の隊に加わり、ヤクーツクを経由して寛政8年(1796年)にイルクーツクへ到着しました。
イルクーツクでは、先に漂着していた日本人、新蔵と出会います。新蔵はすでにロシアに帰化し、日本語学校の教師を務めていました。
善六は新蔵の薦めで帰化を決意し、正教の洗礼を受けてピョートル・ステパノヴィッチ・キセリョフと名を改めます。
彼は日本語教師としての道を歩み始めましたが、この選択は漂流民たちの間に深い溝を生むことになります。
信仰と帰国への希望を巡る意見の対立から、漂流民は善六を中心とする帰化組と、帰国を望む津太夫らのグループに分裂。
帰化組は裕福な暮らしを送った一方で、帰国派は過酷な労働と貧困に苦しみました。
善六が帰化の説得に注力する一方で、儀兵衛や津太夫たちとの関係は険悪となり、後に共同生活も解消されました。
享和3年(1803年)、善六を含む若宮丸漂流民はロシア皇帝アレクサンドル1世への謁見を許され、ペテルブルクへの長旅が始まります。
旅の途中で脱落する者もいましたが、最終的に10名がペテルブルクへ到着しました。
皇帝謁見後、帰国を望む4名の漂流民に帰国許可が下り、善六は通訳兼レザノフの随員として彼らと共にナジェジダ号に乗船。
これにより、善六は世界一周の航海へと参加することになります。
航海は過酷を極め、善六は船内で帰国派の漂流民たちとの対立に苦しみます。
マルケサス諸島やハワイを経て、カムチャツカ半島のペトロパブロフスクに到着した際、善六は船を下り、帰国組とは別行動を取ることになります。
その後の善六は、ロシアと日本を繋ぐ架け橋となる役割を担いました。
文化10年(1813年)、ゴローニン事件の和解に向けた遣日使節の通訳として、20年ぶりに日本の地を踏む機会を得ます。
しかし、日本側の通訳が主に交渉を行ったため、善六の役割は限定的でした。
彼は箱館での会談後、再びロシアへ戻り、イルクーツクで暮らすようになります。
その後も善六はロシアで日本語教師を務め、生活を続けました。
文化13年(1816年)頃、彼はイルクーツクで息を引き取ったとされています。
漂流と帰化、そして異国での波乱万丈な人生を送りながら、善六が築いた功績は、言語と文化を繋ぐ架け橋として、歴史の中に確かな足跡を残しました。
善六の生涯は、漂流という不測の事態から始まり、ロシア帝国と日本を結ぶ重要な人物へと成長した物語でした。
漂流民の中でも特異な存在であった彼の物語は、異国での葛藤と活躍の記録として語り継がれています。