【九州三国志】歴史は語る静かなざわめき!工藤祐隆から伊東氏、日向の地への歩み
平安末期から鎌倉初期にかけて、工藤祐隆という一人の武士が、伊豆国の地で静かにその歴史の幕を開けたことを、ご存じでしょうか。
彼の物語は、伊東氏や河津氏、さらには日向の地に根を張る伊東氏へと続く長い道のりの始まりでもあります。
ここでは、その複雑に絡み合う家族の系譜と、平安末期から戦国時代に至る伊東氏の足跡をたどってみたいと思います。
祐隆は出家後「久須美入道」と号し、伊豆の地を治めていましたが、その一族の運命は、息子たちや養子たちとの関係に大きく左右されました。
祐隆の嫡男・祐家の早世により、後妻の継娘が産んだ子を養子とし伊東荘を継がせましたが、これが後の河津祐親との確執を生むきっかけとなります。
その後、祐隆の孫にあたる祐経が平家の家人として仕えつつも、伊東荘を巡る祐親との争いに巻き込まれ、ついには「曾我物語」にも描かれるような悲劇的な結末を迎えます。
彼の子孫である祐時が伊東を名乗り、やがて鎌倉幕府から日向国の地頭職を与えられたことで、伊東氏は日向へとその版図を広げていくことになります。
南北朝時代に入り、日向伊東氏は足利尊氏の命により日向の地に定着し、幕府への忠節を貫きました。
しかし、戦国時代には守護職を務める島津氏との抗争を繰り返しながらも、伊東氏はその版図を広げ、最盛期を迎えるに至ります。
特に11代当主・伊東義祐の時代には、従三位にまで昇り、「伊東四十八城」を築き上げるなど、その勢力は日向一帯に広がりました。
このように、伊豆国から始まった工藤祐隆の物語は、次第に伊東氏の繁栄へとつながり、その影響は日向の地にまで及びました。
その歴史は複雑に絡み合いながらも、今なお静かなざわめきの中で私たちに語りかけているのです。
歴史の断片を紡ぎ直すことで浮かび上がるこの物語を通じて、遥か昔の人々の営みを改めて感じていただければ幸いです。