【江戸漂流記】新蔵、漂流と再生の軌跡!異国で果たした役割と複雑な人間模様
宝暦8年(1758年)、伊勢国河曲郡南若松村に生まれた新蔵は、のちに彼の人生を大きく変える漂流の旅へと導かれることとなります。
彼が乗り組んだ神昌丸は、天明2年(1782年)12月に江戸を目指して出港しました。
しかし、翌日には遠州灘で暴風に遭い、船は航路を外れました。
その後の8か月に及ぶ漂流の果て、彼らはアリューシャン列島のアムチトカ島へとたどり着きます。
アムチトカ島での生活は厳しいものでした。
一行は先住民のアリュート人や島に滞在していたロシア人と協力して暮らしましたが、厳しい寒さや栄養不足に苦しみ、多くの仲間が命を落としました。
新蔵は持ち前の聡明さでロシア語をいち早く習得し、生き残った9人の中で重要な役割を果たしていきます。
天明7年(1787年)、新蔵たちは島を脱出し、カムチャツカ半島のウスチカムチャツクに到着します。
ここでも過酷な環境が続き、冬の食糧不足でさらに3名が命を落としました。
天明8年(1788年)にはカムチャツカ半島を横断し、オホーツクに到着するも、凍傷により片足を失った庄蔵はロシアに帰化。
その後、新蔵たちはイルクーツクへ向かい、寛政元年(1789年)に到着します。
イルクーツクでは、同じ日本からの漂流民との交流があり、異国で再会した彼らは日本語を通じて心を通わせました。
しかし、異国での生活は容易ではありませんでした。
新蔵はキリル・ラクスマンの荷物を運ぶ任務を託される直前に病に倒れ、死を覚悟して正教の洗礼を受け、ロシア名ニコライ・コロトゥイギンを名乗ります。
幸いにも病は回復し、新蔵はその後、ロシア女性マリアンナと結婚することになりました。
寛政4年(1792年)、新蔵は光太夫や磯吉たちの日本帰国を見送ることになります。
彼らとの別れは悲痛で、『魯西亜国漂舶聞書』には涙ながらに別れる新蔵の様子が描かれています。
一方、新蔵はイルクーツクに残り、現地の日本語学校で教師としての道を歩むことになります。
彼の新生活には家族も恵まれましたが、望郷の念に苦しむ庄蔵とは不和が続きました。
さらに、新蔵は若宮丸の漂流民たちと出会い、彼らを保護する役割も担いました。
この時、新蔵は日本語教師としての地位を確立しつつ、彼らの帰化や洗礼を支援しました。
しかし、その過程で善六や辰蔵との関係は深まった一方、宗教的な選択を巡って漂流民たちの間には対立も生じました。
その後、新蔵は再婚し、新たな家庭を築きました。
一方で、漂流民たちはペテルブルクでの謁見を果たし、帰国の途につく者と異国に残る者に分かれたのです。
新蔵は帰国組の出発を見送ったのち、イルクーツクへ戻り、官給を受けながら教師としての職務を全うしました。
文化7年(1810年)、新蔵は52歳でイルクーツクにて亡くなります。
異国で生涯を終えた彼の人生は、波乱万丈ながらも使命感に満ちたものでした。
日本語教育の礎を築き、多くの漂流民を支えた彼の足跡は、異国における日本人の歴史の一幕として輝きを放っています。