【九州三国志】伊東崩れと義祐の転落!武家の栄華と苦難の末路
天正の世は、数多の武家が一国を巡り争う乱世でありました。
その中でも伊東義祐は、日向を支配する一大勢力として名を馳せておりましたが、やがてその栄華は木崎原の戦いを機に崩れ去るのでございます。
元亀三年(1572年)、肝付氏の侵攻に揺れる島津氏の加久藤城を攻めた伊東軍。
しかし3,000の大軍は、島津義弘率いるわずか300の兵に敗北を喫し、名だたる武将たちが命を散らしたのでございます。
この敗北を「木崎原の戦い」と呼び、以後、義祐の勢力は坂を転げ落ちるように衰退していきました。
四年後、高原城が島津の大軍に攻め落とされるや、周辺の城々が続々と島津に寝返り、野尻や青井岳の境界は危機に陥りました。
家臣たちは義祐に訴えますが、驕慢の日々を送る彼は耳を貸さず、諫言を封じる家臣だけを重用する有様。
義祐の慢心が家臣団を分断し、さらなる混乱を招きます。
天正五年(1577年)には南の日向を守る櫛間城が落城。
義祐の三男祐兵が奮戦するも飫肥城まで攻め込まれ、義祐は次男の嫡孫に家督を譲り事態打開を図ります。
しかし、同年末にはついに野尻城が島津に寝返り、さらに紙屋城や内山城も奪われ、領土の大半を失いました。
この事態に義祐はついに日向を捨て、豊後国の大友宗麟を頼ります。
逃避行は過酷を極めました。
険しい山道を猛吹雪の中進み、追撃と山賊に怯えながら、義祐一行は120名から80名足らずにまで減ります。
豊後に辿り着いた義祐は宗麟の助力を得て反撃を試みますが、耳川の戦いで大友軍は大敗。
義祐の立場はさらに悪化しました。
その後、義祐は四国へ渡り、やがて播磨で祐兵が羽柴秀吉の家臣となるのを見届けます。
しかし、自らの行いを悔い続けた義祐は流浪の旅を続け、最期は病に倒れ、堺の砂浜に捨て置かれるという無惨な末路を迎えたのでございます。
義祐の生涯は、武家の栄華とその崩壊を如実に物語ります。
驕り高ぶることの虚しさ、信を失った者の孤独な最期が、歴史に刻まれた一つの教訓であると言えましょう。