【九州三国志】武勇は鬼神、教養は雅に!新納忠元、薩摩を支えた武人の生涯
大永6年(1526年)、新納祐久の子として生まれた新納忠元は、島津氏の一族として幼い頃から薩摩の地を支えてきました。
13歳で島津忠良に仕え、その後も島津貴久、義久、義弘と続く当主たちの下で、数多の戦場でその武勇を示したのです。
永禄5年(1562年)の横川城攻めや、永禄12年(1569年)の大口城攻略では、負傷を押して奮戦し「武勇は鬼神の如し」と称えられました。
特に元亀3年(1572年)の木崎原の戦いや、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは、島津軍の勝利に大きく貢献しています。
忠元はただ戦場の鬼として恐れられたわけではありません。
和歌や連歌に通じ、陣中では火縄の明かりを頼りに『古今和歌集』を読み、文雅を嗜む文化人でもありました。
水俣城攻略時には、敵将と歌を詠み合いながら戦を進めるなど、その教養は敵にも一目置かれるものだったのです。
剃髪して豊臣秀吉に降伏した際には「如何に逆らいましょうや」と従順を示しつつ、「義久は一度約を交わした限り絶対に裏切りません」と薩摩の忠誠を貫く姿勢を示し、薩摩武士の誇りを見せた逸話は語り継がれています。
また、忠元の人望は家臣や領民の間にも厚く、庄内の乱後には戦死した美少年平田三五郎を悼んで詠んだ歌が残っているのです。
「昨日まで誰が手枕にみだれけん」と嘆きの思いを綴ったその和歌は、彼の繊細な心情を伝えるものです。
関ヶ原の戦いの後には加藤清正の侵攻に備え、自ら数え唄を作り領内に広めて兵士の士気を高めるなど、民を守る智略も優れていました。
忠元は85歳で生涯を終えたが、その死に際して2名の殉死者が出たほか、多くの者が自らの指を切り落とすことで忠誠を示したといいます。
その数は50余名に及び、彼の死がいかに人々の心を揺さぶったかを物語っています。
鹿児島県伊佐市にある「忠元公園」には彼の功績を称える碑が建ち、今なおその名は薩摩の地に生き続けているのです。
辞世の句は「さぞな春 つれなき老と おもうらん ことしも花の あとに残れば」。老いてなお春を惜しむ心が、忠元という武人の温かな人柄を映し出しています。