【九州三国志】伊東義祐、その生涯の波乱万丈をたどる!家督相続から飫肥役、そして九州の小京都まで
永正9年(1512年)、日向国の戦国大名・伊東尹祐の子として誕生した伊東義祐。
その人生は、波乱と栄光、そして衰退の連続でありました。
彼の物語は、家督相続を巡る争乱から始まります。
天文2年(1533年)、兄である祐充の急逝を機に、叔父・祐武が反乱を起こし、都於郡城を占拠。
義祐は弟と共に一度日向を退去するも、家中の支持者たちの助力を得てこれを撃退。
祐武を自害に追い込み、伊東家を再び掌中に収めることとなりました。
家中騒動が収束した後、義祐は出家を余儀なくされますが、三年後には還俗し、佐土原城に入城。天文5年(1536年)には伊東家の当主として再び立つこととなります。
義祐の名は将軍・足利義晴より偏諱を受けた天文6年(1537年)以降広く知られるようになり、やがて彼の治世下で日向伊東氏は最盛期を迎えました。
義祐の生涯でも特に熾烈を極めたのが、飫肥を巡る争いでした。
永禄3年(1560年)、島津豊州家との飫肥役は一進一退の攻防を繰り返します。
幕府の和睦命令を無視し、七度にも及ぶ侵攻を敢行する義祐は、ついに永禄5年(1562年)に飫肥を完全に領有。
しかしその後も戦乱は続き、永禄11年(1568年)には総勢2万と称する大軍を率いて飫肥城を包囲、島津勢を圧倒的に撃破しました。
こうして飫肥は伊東家のものとなり、義祐の支配下に日向国内の48城が揃い、伊東氏の最盛期を築き上げたのです。
義祐の治世は、戦国大名としての成功だけではありません。
本拠地である佐土原は「九州の小京都」と呼ばれるほど栄え、文化的な発展を遂げました。
しかし、その裏では義祐自身が奢侈と文化享楽に溺れ、武将としての覇気を失っていく姿が浮かび上がります。
特に真幸院攻略においては、北原氏の領地奪取を狙った画策や、飯野地区の支配を巡る島津義久らとの対立が続きました。
最終的に桶平城を放棄するなど、戦乱の収拾には至りませんでした。
伊東義祐の人生は、戦国時代の波乱と栄光、そして文化の輝きを映し出すものであります。
その軌跡は、いかなる戦国大名にも劣らない激動の歴史として、後世に語り継がれていくことでしょう。