卓球女子2回戦に出場した61歳 倪夏蓮(シャリャン・ニ)選手は何者?中国人選手が五輪代表になる方法
パリ五輪の卓球女子は中国のエース、孫穎莎選手を始め、陳夢選手などが順当に活躍。日本からは早田ひな選手、平野美宇選手、張本美和選手が出場しているが、7月31日、女子シングルス2回戦でおおいに盛り上がったのが孫穎莎選手VS倪夏蓮(シャリャン・ニ)選手の試合だった。
両者とも中国人名だが、孫選手の対戦相手、倪選手は中国代表ではなく、ルクセンブルクの代表だ。孫選手が23歳、倪(二)選手は61歳、実に38歳という年齢差のある試合だったが、結果は孫選手の圧勝に終わった。しかし、なぜか、負けた倪選手に注目が集まった。倪選手はこれまでに6度もオリンピックに出場した特異な経験の持ち主だからだが、その経歴も注目に値する。倪選手とは、一体何者なのか。
26歳のときに海外移住
中国の「百度百科」というサイトで、倪選手の経歴が詳しく紹介されている。倪選手は1963年、中国上海市生まれ。15歳のとき、卓球で注目され始め、20歳(1983年)のときに中国の代表選手となり、世界卓球選手権に出場。女子団体で金メダル、女子ダブルスで銅メダル、混合ダブルスで金メダルを獲得するなど、大活躍した。
ところが、それから6年後の1989年、26歳のときにドイツに出国する。さらにその2年後にルクセンブルクに移住。なぜ海外に出国したのかという理由については、どのサイトを見ても書かれておらず、インタビューなどでも明確に答えていない。
ただ、この年は天安門事件が起きた年であり、当時、中国の一般人の海外出国は非常に難しい時期であったことだけは確かだ。特権階級の人か、一部のエリート留学生などだけしか海外には行けない時代だった。
ルクセンブルク代表として五輪に出場
ルクセンブルクに移住後、現在の夫であるスウェーデン人のコーチと出会い、二人三脚で特訓を積んだ。ルクセンブルク国籍を取得し、2000年にシドニー・オリンピックの卓球女子シングルスと女子ダブルスに出場を果たす。このとき、すでに37歳になっていた。
そして、2008年の北京オリンピック、2012年のロンドン・オリンピック、2016年のリオデジャネイロ・オリンピック、2021年の東京オリンピックにも立て続けに出場を果たした。
リオでは閉会式の旗手をつとめ、東京では、オリンピックの卓球選手として最年長を記録した。また、2021年の世界卓球選手権では、女子ダブルスで伊藤美誠・早田ひなペアに次いで銅メダルを獲得するなどの実績を残した。
今回のパリ五輪では2回戦で中国のエース、孫穎莎選手と対戦したことや、娘のような年齢の孫選手と、とても楽しそうにハツラツと試合したことで「あの選手は誰?中国人なのに、なぜルクセンブルクの代表なの?61歳の選手?」と注目を集めたのだ。
試合後、「同じ中国人」である孫選手と短い挨拶を交わしており、孫選手は「今日の試合を楽しみにしていた。多くのことを学ばせてもらいました」と、まるで母親と接するように語っていた。中国メディアの報道や中国のSNSでは「倪おばさん」という愛称で親しみを込めて呼ばれており、その愛嬌のある笑顔や明るい性格が多数紹介されている。
中国で代表になることは至難の業
海外出国の経緯や、現在まで卓球選手を続けている理由など不明なことが多い倪選手だが、ひとつ言えることは、倪選手が中国代表となった80年代、すでに中国は卓球大国であり、国家の代表選手になることや、それを維持することは極めて難しかったということだ。
その当時でも中国の人口は約10億人。その中で、トップ・オブ・トップになるのは、実力だけではかなわない。倪選手は世界卓球選手権で確かにすばらしい成績を残したが、たとえすばらしい成績を残しても、中国の代表に必ずなれるという保証はない。それ以外の別の力、政治的理由やコネなどが働くからだ。
いまでも、中国人の芸術家などが日本に移住してきて、よく語るのは「日本は公平に実力できちんと評価してくれる国」だということ。その言葉の裏には、中国では異なる事情が影響するということが隠されている。
海外に出ることは人生を変える突破口
思い出すのは、中国出身で、日本の卓球選手として活躍した小山ちれ選手だ。小山選手も倪選手と同世代の1964年生まれ。しかも、同じ上海市出身。卓球女子で世界ランク1位、中国代表として1987年の世界選手権の女子シングルスで優勝するという戦績を残したが、その後、「ある事件」が起きて引退することになった。日本人と結婚して来日し、日本国籍を取得。日本代表として活躍した。
卓球男子の張本智和選手、女子の張本美和選手の両親は中国出身で、張本兄妹は日本生まれ、日本育ちだ。彼らは日本の代表として世界で活躍している。今大会、卓球女子のチリ代表として出場したジーイング・ゼング選手(58歳)も、中国広東省出身。16歳で中国代表となったが、その後、代表落ち。チリに移住して卓球を続け、五輪代表となった。中国に住み続けていたら、代表の座を獲得できたかどうか、わからない。
卓球以外のスポーツでも、中国から海外に移住し、その国の代表となり、活躍している選手は少なくない。代表となり、自分の夢を叶えるために、母国を飛び出し、国籍を変えるのだ。
その過程で、中国の選手と対決する機会が必ず出てくるだろう。中国で代表になれなかったからといって、実力がなかったわけではなく、海外に出たことによって、正当に評価され、実力が認められ、思う存分、それを発揮でき、自分の夢を叶えた選手も多い。
人口があまりにも多く、競争があまりにも激しすぎる中国から海外に出ることが人生を変える突破口になる、と考える人は現在も非常に多い。中国の学校で「平凡な」成績でも、海外に行けば、一流の大学に合格できる若者もいる。
中国だったら、すでに会社員でも「定年」を迎えているはずの61歳の倪選手の活躍や生き方は、中国という大国について、また、選手と国籍という問題について、私たちに考えさせてくれる、よい材料となりそうだ。