清少納言の「清」の由来となった実家清原氏とは
11日の大河ドラマ「光る君へ」にファーストサマーウイカ演じる清少納言が登場した。
紫式部の『源氏物語』と並び称される『枕草子』を書いた清少納言は有名だが、なんとなく「せいしょう・なごん」と区切って読んでいる人も多い。正しくは「せい・しょうなごん」である。この時代の女性は本名を呼ばれることはなく、朝廷での女房名は実家の姓に父や親族の官職などをつなげることが多かった。
清少納言の「清(せい)」とは実家清原氏のことである。
清原氏とは
清原氏は天皇家の分家で、天武天皇の子孫である。
延暦23年(804)天武天皇皇子舎人親王の子孫である夏野が桓武天皇から「清原」の姓を賜って皇族を離れ、臣籍に降下したのが祖である。その後も多くの皇族が次々と清原姓を賜ったため、初期の系図は異同が多くはっきりしない部分も多い。しかし、清原氏の主流は舎人親王の子孫であった。
清原氏は朝廷内では中級貴族であったが、夏野が『令義解』編纂では中心となった他、一族の深養父・元輔らは歌人として活躍するなど、学者一族として知られていた。
元輔は村上天皇の命を受けて梨壺の五人の一人として源順、大中臣能宣、坂上望城、紀時文とともに『万葉集』に初めて訓点をつけ、『後撰和歌集』の編纂にあたるなど当代を代表する歌人であった。三十六歌仙の一人にも選ばれている。
この元輔の娘が清少納言である。清原氏は「清(せい)家」ともいわれたことから、清原氏の娘である清少納言は「清」を称している。「少納言」も近親者の官職に因んでいると思われるが、父元輔は少納言にはなっておらず、誰に因むのかははっきりしない。
因みに、清少納言の本名は全くわからない。
その後の清原氏
深養父、元輔、清少納言と続いた歌人の系譜は、実は清原氏としては傍流にあたる。
嫡流は深養父の兄業恒の子孫で、この末裔は室町時代の業忠の時に堂上に列し、慶長6年(1601)秀賢の時に舟橋家を称して現代まで続いている。
また、清少納言の兄正高は豊後介となり、子孫は豊後国に土着して豊後清原氏となったと伝える。現在国東半島を中心に、大分県と福岡県に広がる「清原」という名字はこの子孫という。
なお、後三年の役で源義家と戦った出羽の俘囚の長の清原氏は、清少納言の祖父春光の弟の子孫ともいわれるが詳細は不明。清原氏一族と関係のある俘囚の長が「清原」の姓を名乗ったものとも考えられる。