【アイスホッケー】名監督になるのは名選手だけではない! 出場試合数「0」の名監督・クリス若林<前篇>
「若林」という名前を聞くと、かつてアイスホッケーの試合に足繁く通っていたオールドファンの人たちは、懐かしさが湧いてくるのではないだろうか?
それもそのはずで、兄のメル若林(日本名:若林仁)氏(74歳)は、長きにわたってコクド(当時は国土計画)で監督を歴任。
また弟の 故ハービー若林(日本名:若林修)氏も、西武鉄道でプレーイングマネージャー(選手兼監督)を長年務めていたからだ。
対して、NHLの日本公式戦や長野オリンピックの開催を機に、アイスホッケーに興味を抱くようになった人たちが、「若林」の名前を聞いて思い浮かべるのは、アジアリーグに加盟している東北フリーブレイズの現監督クリス若林(44歳)に違いない。
▼ファンを沸かせ続けた父親と叔父
兄のメル氏と弟のハービー氏は、いずれも日系カナディアン。
自らのルーツである日本へやってきて、現役時代にFWとして活躍し、二人とも日本リーグのMVPを受賞した。
さらにメル氏は監督として、ハービー氏は選手として、揃ってオリンピックに出場するなど、日本のアイスホッケーファンを沸かせ続けた。
そんな二人はクリスにとって、父親(メル氏)と叔父(ハービー氏)にあたる。
しかし、名選手だった父や叔父とは異なり、クリスの日本リーグの出場試合数は「0」。選手としての実績は遠く及ばない。
だが、指導者として引けをとらない実績を残し、日本のアイスホッケー界を牽引し続けている。
▼アラスカでアイスホッケーを楽しむ
クリスは日系カナディアンの父と、日本人の母の間に生まれた。
父親がコクドの監督を通算11季にわたり(共同コーチ体制は除く)務めていたのに加え、チームのオーナー企業の仕事も担っていたため、小さい頃から日本と北米を行き来する生活だった。
小学校時代の多くをアラスカで過ごしたクリスは、色々なスポーツを楽しんだが、やはり一番はアイスホッケーだ。
6年生になって両親が日本へ帰ったあとも北米に残り、アメリカ北東部の全寮制の高校へ進学。チームのキャプテンを担うほどの選手だったクリスは、ミシガン大学へ進んだ。
▼アイスホッケーの強豪校へ進学
ミシガン大学は父親の母校でもあり、誰もが認めるアイスホッケーの強豪校。
クリスが学んだ頃にも、のちにNHLへ進み1000試合以上もプレーした マイク・クヌーブル(元フィラデルフィア フライヤーズ)を筆頭に、有力選手が多数在籍し、図抜けた力を持ち合わせていなければ、試合に出場する機会は巡って来ない。
そのためクリスはプレーする機会を求めて、地元のクラブチームでアイスホッケーに興じたり、父親が監督に就いた縁で、コクドのサマーキャンプにも参加。
一方でスポーツマネージメントを学びながら、4年生の時には、ジュニアリーグのチームで「もともと興味があった」というコーチを務めることもあったと言う。
▼国籍が大きな壁に
父親が縁となり、在学中からコクドのサマーキャンプに参加していたクリスは、ミシガン大学を卒業後、日本へ移りコクドのメンバーとなった。
だが、そこに大きな壁が立ちはだかっていた。「国籍」だ。
クリスは東京生まれだが、父親が有していたカナダ国籍を受け継ぎ、日本国籍を選択しなかったことから、日本リーグでは外国籍選手として登録しなければならない。
当時のコクドは外国籍選手の登録枠こそ空いていたものの、帰化を前提に登録した日系外国籍選手が3人も在籍。
その兼ね合いによって、チームの方針から、クリスは日本国籍を取得するまで公式戦に出場できず、練習だけの毎日が続いた。
▼背番号8のプレーは見られず・・・
「元気ですか?」
練習の取材に足を運ぶと、最後まで汗を流したクリスは、リンクサイドに戻ってきて、いつも声を掛けてきた。そして、そのまま足を止め、汗も拭わず、時間も気にすることなく、雑談に付き合ってくれた。
雑談の合間に、話がアイスホッケーに及ぶと、「早く試合に出たいですよ」という本音を耳にすることも少なくなかった。
憧れの選手はキャム・ニーリー。高校時代を過ごした時、最も身近だったボストン ブルーインズ(NHL)のポイントゲッターで、のちに殿堂入りも果たし、現在はチームの社長を務めている人物だ。
その姿に憧れたクリスは、コクドの一員になると、ボストンへ移籍してからニーリーがつけ続けた背番号「8」を選び、日本リーグでプレーする日を待ち望んだ。
しかし、背番号「8」のユニフォーム姿を見ることは、一度もなかった。
なぜなら、日本代表の通訳として、クリスは白羽の矢を立てられたからだ。
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