「もがくような思いが韓国映画の歴史を変えた」『ボストン1947』カン・ジェギュ監督インタビュー
韓国映画界を変えた監督が、新作をひっさげて再び日本にやって来た。現在全国公開中の映画『ボストン1947』のカン・ジェギュ監督。スパイアクションという新しいジャンルを開拓し、韓国映画として初めて週末興行成績1位となった『シュリ』(99)を手がけた名匠だ。
新作『ボストン1947』の舞台は、第二次世界大戦終戦後、いまだ混乱と絶望に包まれていたアメリカとソ連の軍政期の韓国。祖国を旅立ち、ボストンマラソンに挑む人々の実話がベースとなっている。自身もまさに韓国映画界のトップランナーといえる、カン・ジェギュ監督にインタビュー。本作の魅力と、南北分断や歴史をベースに作品を撮り続ける原動力を聞いた。
――今回 は 『チャンス商会 ~初恋を探して~』(15)以来の作品ですが、テーマとしてマラソンを選んだ理由を教えてください。
カン・ジェギュ監督:実は、『チャンス商会』の後に、中国映画を1、2本準備していたのです。ところが、韓国と中国の高高度防衛ミサイル(THAAD)をめぐる問題【註:米軍の迎撃システムを韓国に配備したことで、韓流スターや韓国製品を中国市場から締め出す動き。いわゆる「禁韓令」】によって、プロジェクトが失敗に終わったため、長い空白期間ができたという事情がありました。
マラソンをテーマにした『ボストン1947』を選んだのは、もともとマラソンの映画に関心があり、ソン・ギジョンさん【註:孫基禎。1936年のベルリンオリンピックのマラソン競技で、日本代表として金メダルを獲得した】についての映画を撮ってみたいと思っていたからです。そんななか、本作のプロデューサーにシナリオを渡されて、メガホンを取ることにしました。
――1947年が舞台の映画です。祖国解放から朝鮮戦争の間の軍政期を背景にした作品があまり多くないのは、なぜでしょうか。また、この時期を描くにあたりどのようなリサーチや準備をしましたか。
カン・ジェギュ監督:たしかに、アメリカとソ連による軍政が行われていた1945年から1950年の間を描いた映画やドラマは、他の時代に比べて少ないといえます。呂運亨、金九、李承晩など歴史的な人物が葛藤した激動の時代だったにもかかわらず、なぜ描かれなかったのか。その理由は、わたしも正確にはよくわかりません。
参考にできる資料もあまり多くなく、その時代、特に1947年のボストンを再現することは、わたしたちにとって大きな宿題でした。ボストンやマラソン協会に足を運んだり、さまざまな資料を参照したりして当時を表現する努力を重ねました。
――マラソンはスペクタクルでありながら、撮影対象としては単調にもなってしまう可能性もあるスポーツです。マラソンをテーマにするにあたって苦労した点とは?
カン・ジェギュ監督:まさにそれが一番大きな課題でした。スポーツ映画は、個性あふれる選手たちがチームワークでひとつの目標に向かっていく過程が面白い。でも、ひとりで走るマラソンは、相対的に単調になりがちです。映画の中でマラソンという競技をどう見せるか、悩んだのは当然ともいえます。
しかし、『ボストン1947』は、実話をベースにしているところが強みです。例えば、ボストンマラソンのコースには「ハートブレイク・ヒル(心臓破りの丘)」と言われる急傾斜のアップヒルがあるのですが、そこを乗り越えた背景に、主人公のユンボクが幼いころに母に食事を届けるために峠を走った経験があると解釈しました。また、レースの途中で犬が飛び出してくるアクシデントがあるのですが、そのような実際のエピソードを盛り込んで、リアルに描くようにしました。
――日本ではマラソンはもちろん、正月に開催される大学対抗の箱根駅伝も人気があります。マラソンというスポーツ、長距離走という競技の魅力はどんなところにあると思いますか?
カン・ジェギュ監督:マラソンは、オリンピックでも花形競技だといわれていますよね。選手が一歩を踏み出してからフィニッシュラインにたどり着くまでの42.195キロは、まるで人生そのもの。テレビなどで応援する人たちは、選手がどれだけ多くの汗を流し、いかに自分と死闘を繰り広げているのかを想像して、熱狂するのだと思います。
選手たちの姿は、ある意味、応援する人それぞれに重なるのかもしれません。自分の人生を選手に重ねながら、2時間以上声援を送る。『ボストン1947』も、そんな思いで観ていただけたらと願いながら、マラソンのシーンを撮影しました。
ボストンで走る若手選手ソ・ユンボクを演じるのは、ドラマ『ミセン』(14)などで注目され『イカゲーム2』への出演も決まった最旬俳優、イム・シワン。体脂肪を6%に落として撮影に臨んだ体躯には、アスリートの風格が漂う。また、ユンボクを父親のような目線で見つめるソン・ギジョン役には、『チェイサー』(08 )『1987、ある闘いの真実』(17)など実話ベースの作品で存在感あふれる演技を見せるハ・ジョンウを配した。
――イム・シワンさんの筋肉の付き方や表情、走るフォームなどがとてもリアルでした。
カン・ジェギュ監督:本作の勝敗はイム・シワン、つまりユンボクにかかっていると考えていました。観客が俳優のイム・シワンではなく、マラソンランナーのユンボクと認識してこそ、映画に入り込むことができ、楽しめるだろうと。だから、イム・シワンさんとは準備の段階から、実話を扱っている以上、その人物になりきるのが基本的で重要なことだと話しました。しっかり準備したので、完成度が高い仕上がりになったと思います。
イム・シワンさんは、意図的に計算して演技するのではなく、流れ出るように演じる人です。単純な努力でなしうることではなく、天性のものではないかと思うほど、すごく自然でした。
ハ・ジョンウさんは、イム・シワンさんのそのような長所を、兄のように父のように支えながら、作品をよりしっかりしたものにするテントポールのような役割を果たしてくれました。
――イム・シワンさんが演じるユンボクとハ・ジョンウさんが扮するソン・ギジョンは、時には衝突しながらも苦楽を共にしお互いに成長していきますが、その部分を演出する際にこだわった部分とは。
カン・ジェギュ監督:わたしのような世代と若い10代は、お互いに感覚の違いや世代の差があるのを感じながら生きていますよね。映画の舞台になった1940年代にも、世代間の葛藤があったことでしょう。
若い観客たちはきっとユンボクに自分を重ね、ソン・ギジョンは父親を見るような感覚になるのではないかと思いました。だから、現代に生きるわたしたちが感じる世代間の葛藤を、ユンボクとソン・ギジョンの関係に投影したのです。ユンボクを、今の10代~20代が共感できる立体的なものにするために、若い人たちを対象にした試写会を開き、感想を聞きました。それによって、時代を超えて心に響くキャラクターとなり、とても満足しています。
実は、監督にインタビューするのは2回目だ。1回目は、24年前、『シュリ』が日本で初めて韓国映画として週末興行成績1位となった直後のことだった。その数年前までソウルに留学していた筆者は、韓国人の友人を韓国映画に誘うと「つまらないから嫌だ」と断られることがしばしばだった。ハリウッドや香港映画が大流行していた時代。そんななか、潮目を変えたのが『シュリ』だった。
黎明期の韓国映画界をフロントランナーとして疾走し、世界市場で勝負に出たカン・ジェギュ監督の姿は、ボストンで祖国の国旗を胸に全力で走る本作のユンボクをほうふつとさせる。今回取材の機会に恵まれて、聞いてみたかったのは、当時のこと。監督のキャリアの原点についてだった。
――監督が映画界に入ったのは91年。政治的な映画はタブーだった時代に、
『Who Saw the Dragon’s Toenails?(英題)』でシナリオ大賞を受賞したことがきっかけだったそうですね。
カン・ジェギュ監督:そうです。その作品を書いたのは、20代後半の時。当時の政治家の二面性を告発する内容でした。ジャンル的には政治スリラーです。おっしゃるとおり、あの頃はそういう映画はタブーだったんです。周りは心配しましたが、むしろ高い評価を受けることができました。
――『シュリ』は当時、それまで悪として描かれていた北朝鮮の人を人間味ある存在として表現し、話題となりました。その後も朝鮮戦争を舞台にした『ブラザーフッド』(04)、離散家族を描く『あの人に逢えるまで』(14)のように南北問題や現代史に関する映画を多く手がけているのはなぜですか。
カン・ジェギュ監督:南北問題を描いたのには、特別な理由があります。北京にある清華大学で『銀杏のベッド』(96)のシナリオを長い間執筆していたんです。そこで北朝鮮からきた留学生に出会って。最初は警戒していたのですが、一緒にビールを飲んだり卓球をしたりするほど親しくなりました。その経験が、分断やイデオロギーについて考え直すきっかけとなって、「南北関係についての映画をつくらなければ」と決心したのです。
――『シュリ』の日本公開時にお話を伺った際、監督は「大衆と呼吸できる映画をつくれば、韓国映画は絶対ダメという固定観念を破ることができる」と言っていました。あの時代に韓国映画が大きく変わった理由が気になります。
カン・ジェギュ監督:おっしゃるとおり、90年代から韓国映画は大きく変化しました。わたしが思うに、当時、韓国の映画人たちは自信がなかった。敗北感のようなものを抱いていたのです。当時の韓国映画市場では、ハリウッドや香港の作品が80%を占めていて、韓国映画は存在感が相対的に薄かった。資本構造やさまざまなインフラが不足しているという問題もありました。「わたしたちだってやれるし、挑戦できる」という意識がなかったんですね。
わたしには、そういう状況をとにかく打破してこそ変わることができるという、もがくような思いがあった。だからこそ、『シュリ』(99)という映画が生まれたのだと思います。
――いまや韓国映画やドラマは世界で注目される存在になりました。韓国のコンテンツが世界で「強い」と言われる理由は何だと思いますか。
カン・ジェギュ監督:韓国のテレビのプロデューサーと、そういう話をしたことがあります。その方がこう言ったんです。「『韓国には連続ドラマが多すぎる。ありえないストーリーを盛り込んだ作品であふれている』と批判する視聴者や評論家がたくさんいるけれど、自分はそういう状況は大切で必要だと考えている」と。過剰な状態は、新たな教訓を学び輝く作品を生む発展の原動力になるのだと。
韓国の観客はドラマが大好きで、すごく愛しています。だから、作り手もどんどん作品を世に出そうとする。そうしているうちに、観客が何を求めているのか、理解できるようになるのです。結果的に、観る人たちを夢中にさせるコンテンツをつくることに成功する。つまり、過剰な状態から良い作品が生まれる。わたしは最近そう考えています。
K-POPもそうですし、韓国のエンタメは熾烈な競争にさらされている。ドラマや映画でいえば、作品化を待っているシナリオが一万本ぐらいあるとも言われています。小さな国の市場で多くの人たちが闘っている。そこで生き残ったごくわずかな作品だからこそ、世界で成功する可能性が高いのではないでしょうか。
――インターネット配信を始め、映像のプラットフォームが多様化しています。監督は今後、どんな形でどんな作品を作りたいと考えていらっしゃいますか。
カン・ジェギュ監督:今、映像は激動と激変の時代を迎えています。TikTokをよく見ながら、ショート動画の時代にドラマや映画はどのように変化すべきか、現在の形を維持するべきか、考えています。いまは、答えはまだ分かりませんが、新しい時代に合わせた映像の形を模索する時期に来ているのは明らかだと思います。
■公開日:8月30日(金)より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開
■配給: ショウゲート
■写真クレジット(すべて)
(c)2023 LOTTE ENTERTAINMENT & CONTENT ZIO Inc. & B.A. ENTERTAINMENT & BIG PICTURE All Rights Reserved