Yahoo!ニュース

豪姫の願いも虚しく、生涯の大半を八丈島で過ごした宇喜多秀家

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
宇喜多秀家と豪姫の像(東京都八丈町)。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」の新キャストが発表され、栁俊太郎さんが宇喜多秀家を演じることになった。秀家の妻の豪姫は、関ヶ原合戦前に西軍の勝利を祈願したが、ついに叶うことがなかった。その後、秀家は八丈島に流されたが、その間の経緯などを考えてみよう。

 関ヶ原合戦を前にして、秀家の妻・豪姫は夫の秀家が関ヶ原合戦で勝利するよう、大和国長谷寺に戦勝祈願の願文を奉納したことが知られている。

 そのとき豪姫は秀家を単に「中納言様」と記したことから、後で「中納言様は大勢おりますが、秀家様のことです」と追記している。ところが、秀家が属した西軍は、無残な敗北を喫した。

 開戦前の宇喜多家中は騒動で混乱していたので、宇喜多軍の大半は各地から集まった牢人衆で構成されていた。吉川家は、秀家軍がまとまりのない「烏合の衆」だったと評価していた。開戦前から勝敗の帰趨は明らかだったのである。

 大敗を喫した秀家は、美濃へと逃亡した。その間、秀家の家臣が奔走し、大坂の備前屋敷で秀家と豪姫が再会したといわれているが、厳しい監視の中で本当に再会を果たしたかは疑問である。

 慶長6年(1601)、秀家は薩摩の島津氏を頼り、2年余りの潜伏生活を送った。しかし、徳川家康と島津氏の関係が修復されると、秀家は家康のもとに送られた。

 当初、秀家は奥州に流されるかと考えていたが、最初は駿河国久能に幽閉された。そして、3年後、秀家は八丈島へ配流されることになったのである。

 八丈島には、子の秀高・秀継を含め計13名が流された。無事に秀家は八丈島に到着すると、大賀郷で生活を送ることになったが、そこは想像を絶する世界だった。

 八丈島では、食糧をはじめ物資が不足していた。旧臣の進藤氏や花房氏らは、秀家に仕送りを行っていた。豪姫の生家の加賀藩前田家も秀家に仕送りを行い、それは幕末まで続いた。秀家の生活は、仕送りで何とか成り立っていたのである。

 秀家の生活には、涙ぐましいエピソードが数多くある。例えば、秀家は本土への帰国を願い、「米の飯を腹一杯食べて死にたい」ともらしたという。

 また、現地代官との食事の際、現地で娶った妻や家族のために、食べ物を手拭に包んで持ち帰ろうとしたという。このような逸話が本当なのか否かは不明であるが、秀家の耐乏生活を物語っており、大変興味深いところである。

 送られる物資は、米のほかに薬、剃刀、布地、扇子などがあった。しかし、海が荒れたときには、船が物資を載せたまま沈没することもあったのである。

 今も八丈島には、秀家と豪姫が仲良く並んだ像があるが、豪姫が八丈島に渡ることは実現しなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事