ルメールが挑んだケンタッキーダービーの裏話
調教で掴んだ好感触
現地時間5月8日の早朝。アメリカのルイビル国際空港に、クリストフ・ルメールの姿があった。
日本に帰国する飛行機の搭乗手続きを終え、ボーディングゲートまで並んで歩いていると、彼の手を離れたキャスター付きの荷物だけが、私の進路を阻むように前に転がって来た。慌ててそれを掴んだルメールは言った。
「あぁ、ごめんなさい。審議です」
日本語でのそんな冗談に、リラックスした様子がうかがえた。しかし、続く言葉に前日の敗戦の悔しさも感じられた。
「ケンタッキーダービーに乗れたのは自分にとっては素晴らしい経験になりました。乗せてくださったオーナーやトレーナー、関係者の皆さんには感謝しかありません。それだけに勝てなかったのは残念でなりません」
レースが終わった時間が遅かった事もあるが、VTRを何度も見た後、荷物の整理をすると寝る時間がないまま朝を迎えたという。彼が今回臨んだケンタッキーダービー(GⅠ)は、かの地で「スポーツの中で最もエキサイティングな2分間」と言われるビッグレース。7日に行われたこの競走のために彼が現地入りしたのは2日。週の頭の事だった。
「経由先のニューアークで乗り継ぎの飛行機が遅れて5時間も待たされました」
やっとの思いでニューアークを発ち、決戦の地であるチャーチルダウンズ競馬場のあるルイビル入り。宿泊先のホテルに着いたのは深夜2時を過ぎていた。日本とは13時間という時差もあいまっていきなりのキツいスタートとなった。
それでもその2日後の4日、その表情はほころぶ事になる。
「こちらのダートを気にする事もなく軽快に動いてくれました。状態は良さそうだし、好勝負が出来ると思います」
レースでタッグを組むクラウンプライド(牡4歳、栗東・新谷功一厩舎)に、この朝、初めて跨った。本番へ向けた最終追い切りで、好手応えを感じて言ったのがこのセリフだ。更に、雨を含んだアメリカンダートについても「気にならなかった」と続けた。
「レースまでの間にまだ雨が降る予報ですが、今日の感じなら大丈夫そうです。ケンタッキーダービーですから、道悪のイメージがあります。天気ばかりは仕方ないです」
実際、前日も雨が降った。しかし予報されていた大雨ではなく、間歇的な降水だった上、当日はほんの僅かにパラついた程度で、全米注目の2分間を迎えた。
名手の感覚を狂わせたスピード
ジョッキールームではプラやルパルー、ジェルーら現在は北米に身を置いて活躍するフランス人騎手と同じエリアにいたという。
「すぐ隣ではロザリオやオルティス等がスペイン語で喋っていたけど、僕はフランスの仲間とずっとフランス語で話していたのでストレスなくリラックス出来ました」
集合時刻を迎え、スポンサー名入りのパンツを穿いたルメールは、ジョッキールームから他の皆と一緒にパドックへ向かう。扉を開け表に出た際に上がった歓声は、パドックへ向かう階段を下りる時にひときわ大きくなった。
「この時はゾクゾクして鳥肌が立ちました」
それでも緊張はしなかったそうだが、その直後に「少し興奮している自分に気付く場面があった」と言う。
吉田照哉オーナーら皆で記念撮影をした後の事を述懐した。
「クラウンプライドに早く乗りたいと思いました。僕が少し掛かり気味になっていました」
跨って馬場入りする際には、このレースの象徴といえるファンによる「マイオールドケンタッキーホーム」の大合唱があった。しかし、それも「良く聞こえなかった」と言うと、更に続けた。
「馬自身は落ち着いていたので、僕も余裕を持てました。だから、ほぼ直角に高くそびえるスタンドを見上げて『凄いなぁ』なんて感じていました」
こうしていよいよ第148回ケンタッキーダービーのゲートが開いた。
「好スタートを切れて楽に2番手に行けたし、最初のコーナーで抑えたら掛かる事なくリラックスしてくれたので『良いぞ』と思いました」
最初の半マイルが45秒36。速いと感じたか?と問うと、名手はかぶりを振って口を開いた。
「リズムが良くて、向こう正面でも息が入ってずっと手応えが良かったので、そんなに速いペースとは感じませんでした。だから道中は『勝てる』『勝てる』と思いながら乗っていました」
5年連続JRAリーディングジョッキーの感覚を麻痺させるほど、パートナーはアメリカ競馬にスピード負けをしなかった。しかし、最後にツケが回って来た。
アメリカダートの壁は越えられるのか?
「3コーナーで他馬に内から来られると、ちょっとだけ反応したけど、最後は一杯になってしまいました」
一瞬先頭に立つかという場面を演出したが、結果は13着。大敗に終わった。
「アメリカのダートは慣れが必要かもしれません。サウジアラビアやドバイには近い感じを受けたけど、日本とはまるで違います」
マルシュロレーヌでアメリカダートの牙城を崩した矢作芳人調教師が「芝もこなせる馬でないと難しい」と言っていた点を伝えると、唇を一旦噛んだ後、開いた。
「マルシュロレーヌは後ろからで速い流れに乗じて伸びたけど、今回は逆の立場になってしまいました。速い流れで先行したので止まってしまいました。マルシュロレーヌは素晴らしいのは確かだけど、芝をこなせる馬だから走れたのかどうか、僕には分かりません。自分自身チャーチルダウンズは3回目の騎乗だけど、ここのダートにどんな日本馬が合うのか、正直まだ分からないです」
昨秋のブリーダーズCで手掛かりを掴めたかと思えたアメリカのダート界だが、日本の馬は本当の意味で通用するレベルに達しているのか。最後に聞くと、次のように答えた。
「あんなに速い流れだったのは、レース後、新谷調教師に言われて知りました。それでラップタイムをチェックして驚きました。それくらいクラウンプライドは楽に走れていました。結果は残念だったけど、あのスピードで走れるという事は、通用するのだと思います」
果敢に挑戦したクラウンプライドとその陣営のためにも、リーディングジョッキーの見解が正しい事を願おう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)