WBC決勝ラウンド、侍ジャパンには「感動」ではなく「勝利」を期待したい
ぼくは今、羽田空港のカードラウンジにいる。ここで、一杯350円の缶ビールを飲む。この後、午後7時過ぎのAA便でロサンゼルスに向かうのだ。今回のWBCは、ここまでソウルで2試合、東京で3試合観戦した。無理な日程を組んだものだから、前後の仕事の処理が結構大変で、テレビでは1試合も見れていない。したがって、決勝ラウンドを前にしながら最新情報にはあまりキャッチアップできていない。でも、その分現場の空気感はしっかり掴めたと思っている。
盛り上がり度はもうひとつだったソウルにしても、その数日後に国家を揺るがすスキャンダルが大きな転換を迎えたとなると理解できる。そして、東京のムードは最高潮だった。サッカーのワールドカップの際は、道ですれ違っても普段はせいぜい挨拶くらいしかしない近所のオクサンですら、日本戦の朝には「いよいよ今日ですねえ」なんて妙に嬉しそうに話しかけて来て、こっちはリアクションに困ってしまうことがある。さすがにWBCでは、そこまではない。しかし、この勢いなら、サッカーのW杯並みの国民的行事になる日も、(WBCがこのまま継続するなら)遠くはなさそうだ。それ自体はとても良いことだと思う。
果たして、侍ジャパンの行く末やいかに。思い出してみると、前回2013年のWBC準決勝でプエルトリコに敗退した後や、2015年のプレミア12で悲劇的な逆転負けを喫した後は、ファンやメディアは手のひらを返したように侍ジャパンへのバッシングを展開したっけ。
その中には、山本監督や小久保監督の采配へのネット特有のえげつない中傷も多かったのだけれど、選手たちはプロ中のプロなのだから、基本的には負けた暁には厳しい非難を浴びてしかるべきだと思う。「感動をありがとう」なんていうのは好きじゃない。リオ五輪メダリスト達の帰国後のパレードを報ずる際に、「感動をありがとう」との見出しをつけた大手新聞があった。彼らはその勝利によってパレード参加の権利を得たのだ。敗れはしたがフェアプレーの精神が素晴らしかった、などというのではない。したがって、選手へのお礼は「感動」に対してではなく、「栄光」に対して述べるべきだった。
ぼくは侍ジャパンの勝利だけでなく、他国の戦い方にも大いに注目しているのだけれど、もちろん日本の勝利に如くはない。彼らには、感動よりも勝利を期待して、1人で乾杯することにする。それでは行ってきます。