わが師、押阪忍さん亡くなる 「プロ野球ニュース」ではカープ初日本一で赤ジャケット着用
民放フリーアナウンサーの草分け、押阪忍さんが亡くなったと会長を務めるエス・オー・プロモーションが8日公式サイトで伝えた。89歳だった。
押阪さんはNETテレビ(現テレビ朝日)の局アナ第一期生。その後、民放アナ初のフリーアナウンサーとして、「ベルトクイズQ&Q(※)」(TBS)や「東芝ファミリーホール特ダネ登場!?」(日本テレビ)など数々のヒット番組の司会を務めた。
またテレビCMの「ラーマ奥様インタビュー」も話題に。テレビが茶の間の中心だった時代の人気司会者だった。
様々なジャンルの人がテレビMCを任される今の時代とは異なり、局アナ出身の司会者が番組を仕切ることが多かった1960~80年代前半。堅物風の喋り手が少なくない中、押阪さんはソフトな語り口で一般参加の出演者を和ませ、幅広い世代が親しみを感じる存在だった。
野球関連では78年から80年まで「プロ野球ニュース」(フジテレビ)の土日の司会を担当。デーゲームで広島東洋カープの初の日本一が決まった79年11月4日(日)の放送では、ある行動に出たと押阪さんは生前話してくれた。
「局の売店にあった『赤いジャケット』を買って、夜の番組に出ました。立場上『12球団公平』ですが隣県の岡山出身者として、日本一をお祝いしました」。当時のニュース番組では稀な遊び心だった。
2008年12月に都内ホテルで行われた「押阪忍アナウンサー生活50周年記念の集い」は盛大に行われ、著名な喋り手が一堂に会した。
筆者は押阪さんが創業したエス・オー・プロモーションに2017年まで18年間所属。所属する以前の勉強会以来、公私ともにお世話になった。特に「ことば」への意識は喋りだけではなく、のちに文章を書くことになった筆者にとって大きなものとなった。言わば「師匠」だ。
筆者が20代の頃、毎週自宅にお邪魔していたことがある。押阪さんにパソコンの使い方を「講師」としてレクチャーするためだった。その最中、筆者の言い回しに不自然な点があると立場が逆転。一旦マウスから手を離し、こちらが教えを請うこととなった。
筆者は押阪さんとの出会いをきっかけに、常に国語辞典をかばんに入れて持ち歩くようになった。スマホ普及前の「ガラケー」の時代だ。
その頃、押阪さんが若者ことばで気にしていたのが「とか弁」。「〇〇とか行って、△△とかして…」といった繰り返される曖昧な表現や、本来の意味とは異なる使い方が広がることを憂いていた。
しかし若者のすべてを否定するのではなく、流行りを敏感にキャッチ。それを心地よく会話の中に挟むセンスは、長年第一線で活躍してきた喋り手だと感じさせられた。
筆者は20代にニュース番組、高校野球中継のレポーターなどを担当した後、様々な縁が絡み合い30歳になる年に韓国プロ野球の取材を開始。2004年に初の著書「韓国プロ野球観戦ガイド&選手名鑑」を刊行した。
刷り上がったばかりの本を手に南青山の事務所に挨拶に行くと、押阪さんが昼食に誘ってくれた。その道すがら、骨董通りで押阪さんが口にしたひと言が、今も筆者が仕事をする上での「指針」となっている。
「キミはパンチョ(伊東)になりたいのかい?」
その短いことばの中に、たくさんのヒントが詰まっていた。司会者として相手の思っていることを瞬時に察知し、限られた時間の中でわかりやすく伝えることを重ねてきた押阪さんだからこそ出てきたことばだろう。
筆者夫婦の結婚披露宴。アヤ子夫人と出席した押阪さんは祝辞の結びで、それまでの落ち着きのある丁寧な口調から一変、目を見開いて力強くこう叫んだ。
「(室井は)いい奴です!」
その緩急の利いた話術に列席者から大きな拍手が湧き起こった。
押阪さんは昨年12月、31年にわたり番組パーソナリティーとしてマイクの前に座った「ワンポイント・フィットネス」(JFN)を勇退。名誉賞を受賞した。
テレビ全盛期に子どもからお年寄りまで愛された名司会者は、「生涯現役アナウンサー」を貫いた「ことばの師匠」だった。
※テレビアニメ「ちびまる子ちゃん」では「おじいちゃんベルトクイズに出る」の巻で、本人役として出演している。