明治政府はなぜ北海道・夕張を開拓して街を建設したのか 知られざる夕張開拓の歴史
2019年に「攻めの廃線」によりJR石勝線夕張支線の廃止が行われた北海道夕張市。「攻めの廃線」により便利になったはずのバスネットワークであるが、深刻化するバスドライバー不足の問題から2023年10月1日には夕鉄バスが運行する新札幌駅行のバス路線が廃止となり、今年2024年10月1日には北海道中央バスが運行する札幌駅前行の高速ゆうばり号と岩見沢行の路線バスも廃止となり、夕張市と市外を結ぶ路線バスも消滅する。
北海道夕張市は、国内屈指の炭鉱都市として栄えたが、1990年には市内最後の炭鉱となる三菱南大夕張炭鉱が閉山し、夕張市内から全ての炭鉱がなくなった。その後、「炭鉱から観光へ」のキャッチフレーズのもと石炭の歴史村を始めとしたテーマパークやスキー場の開設、映画祭などのイベント開催により地域経済の再生や人口流出の抑止、雇用再生などを図ろうとしたがことごとく失敗。2006年に財政破綻した。
財政破綻後の夕張市には、鉄道インフラやホテルやスキー場なども残されたが、2011年に市長に就任した現北海道知事の鈴木直道氏により、鉄道は「攻めの廃線」として自らJR北海道に対して廃線を提案。さらに、市が所有するホテルやスキー場などの観光4施設を中国系資本の企業に破格の2億4千万円で売却。このとき売却先の中国人社長と行った共同記者会見の場で鈴木氏は「夕張を国際的な観光地にする」と発言していた。
しかし、そうした期待とは裏腹に2019年の「攻めの廃線」と同年、この中国系企業は夕張市から取得した観光4施設を香港系ファンドに約12億円で転売後、これらの施設の運営会社は倒産した。石炭産業の消滅により夕張経済の最後の砦であった観光産業も消滅してしまった。
こうした夕張の街は、いったいいつ、何の目的で開拓され街が建設されたのだろうか。
きっかけは大規模な地質調査だった
幕末の1800年代に入ると不凍港を求めて南下政策を進めるロシアの艦艇が北海道近海にたびたび出没することになり、ロシア艦による樺太や利尻の日本人居住地の襲撃事件もたびたび発生するようになった。こうしたことから、明治維新後に明治政府は、ロシアに対抗するための防衛政策として北海道を開発し、同時に北海道に眠る多くの天然資源を活用することで国家の経済力を高め欧米列強に対抗することを考えていた。
明治政府は、1869年(明治2年)、蝦夷地を北海道と改めこの北海道と樺太の北方開拓を行うための官庁「開拓使」を現在の札幌市に設置した。そうした中で開拓使は、1873年(明治6年)から1875年(明治8年)にかけて北海道での鉱山開発を視野に入れた大規模な地質調査を実施。お雇い外国人のアメリカ人地質学者ベンジャミン・スミス・ライマン氏が実際の調査にあたり、1874年(明治7年)行われた調査では夕張川流域に石炭鉱脈の存在が考えられると発表されたことが夕張に街が建設されるきっかけとなった。
その後、北海道の行政は、開拓使から函館県・札幌県・根室県が設置された3県時代を経て1886年(明治19年)に北海道庁が設置される。北海道庁設置後の2年後となる1888年(明治21年)にライマン氏の調査隊隊員だった北海道庁の技師・坂市太郎氏が夕張の地を再調査したところ地上に露出した石炭地層を発見。翌年に発足した北海道炭礦鉄道会社(後の北海道炭礦汽船、通称・北炭)が夕張にも採炭所を創設し入植者の募集も始まった。
北海道炭礦鉄道は、薩摩藩士の堀基氏が中心となって設立した会社で、1889年の設立にあたって政府から現在の三笠市にある幌内炭鉱と幌内―小樽間を結ぶ官営幌内鉄道の払い下げを受けると同時に、集治監に収容された囚人を使役できるなどの特権を与えられていた。ロシアに対抗するため開拓を急務としていた北海道には樺戸(月形町)、空知(三笠市)、釧路(標茶町)など、北海道内の要所に作られ、受刑者は開拓のための労働に従事していた。
こうして明治政府による地質調査で石炭鉱脈が発見され、国策会社ともいえる北炭によって建設されたのが夕張という街だったのである。
(了)