大和田獏・大和田美帆が新ユニット“BAKUMIHO”結成!名前に秘められた岡江久美子さんへの思い
家族・親戚が皆芸能人として知られる“大和田ファミリー”の大和田獏さん・美帆さん親子が、新ユニット「BAKUMIHO」を結成しました(11/17に記念公演)。このプロジェクトが生まれたのは、コロナ禍の2020年4月、妻であり母である岡江久美子さんが亡くなったことに起因します。「起こったことすべてに意味がある」と語るお二人が、岡江さんへの思い、これまでの親子関係、今の生活、今後の夢をノンストップで語りました。
―「BAKUMIHO」は、まさに獏さんと美帆さんということですね。
獏:実は「BAKUMIHO」には由来があって…昔から女房と食事に行ってボトルを入れると、「BAKUMI」とか「BAKUMIKO」と書いていたんです。
美帆:母が亡くなった後にお寿司屋さんに行ったら、母が最後に自分で書いたボトルが出てきて、そこに「BAKUMIKO」って書いてあったんです。それを見て、「BAKUMIHO」にしたら獏と美帆の間に久美子が入っていて最高!と思って(笑)。
獏:そしたら、今年僕がデビュー50周年、美帆が20周年だと気づき、記念公演をやろうと美帆が言い出して。美帆は女房に似て行動力があるので、いろいろな方に声をかけて、あっという間にやることになりました。
児童音楽の巨匠や音楽活動でご一緒している素敵な方々が集まってくれて、基本的には2人のトークと美帆の歌、そして僕が初の戯曲を書いて朗読劇をやる予定です。親子愛、許し合うこと、大切にしたいもの、がテーマになっています。
美帆:父は頭の中にやってみたいことがたくさんあるタイプで、私は実行に移すのが得意なタイプ。2人で一歩踏み出せたら強いと分かって、すでに子どもやお年寄りの前で、絵本の朗読をしています。
獏:僕の40歳くらいからの夢が「お話しおじさん」。要請されればどこにでも行ってお話しをすること。朗読、語り、一人芝居…、でも行動力がないからずっと慎重に石橋を叩いていました。
美帆は、「ミホステ」という子ども向けの音楽イベントと、病気の子どもたちと家族を支える「横浜こどもホスピス」の応援アンバサダーをしています。そこで、僕も「2人で皆に喜んでもらうことをできないか」と話したら、彼女が「ユニット組まない?」と提案してくれて、「BAKUMIHO」が始まりました。美帆が私を支えて背中を押してくれているんです。
―今、同居されているんですね。
獏:二世帯住宅で同居という形です。同じ敷地内にある、義父母が住んでいた家をリノベーションしました。僕が1人になったのを心配してくれてね。
美帆:父は基本何でもできるので、半年くらいは1人で掃除・洗濯・料理をしながら生活していました。実家は1人で住むには広いので、新たにマンションで隣同士に住む案も考えたんですけど、父の「母の思い出の中で生きていきたい」という気持ちを尊重しました。私も娘と二人暮らしだったので、娘にとってもおじいちゃんが近くにいるし、ちょっと見てもらえたりして、助かっています。
―SNSで「ばくめし」が人気です。
美帆:ほら!それ私のネーミングです!
獏:僕が1人になってから「きょう何食べた?」と心配するから、料理を写真に撮って送っていたら「せっかくだからインスタに載せたら?」とやり方を教えてくれて。「#ばくめし」と名前をつけて美帆が宣伝してくれたこともあって、一気にフォロワーが何万人も増えて驚きました。
美帆:最初は「こんなの載せてもしょうがない」と言っていたのに、「“いいね”がこんなに来たよ!」って喜んじゃって(笑)。人に見てもらうことで、食器を選んだり彩りを考えるようになって、1人でただ食べているよりよかったと思います。
―親子の関係は変わりましたか?
美帆:変わりました!昔は父のことが大嫌いでした。母は怒らない人で父が厳しくて、小中高の時は門限も含めてダメなことだらけ。それが、20歳からはすべてのルールがなくなりました。
獏:未成年のうちは、娘の不始末は親の責任だけど、成人したら責任はすべて本人なので、そこからは言わないと決めていました。
美帆:当時は恨んでいたけど、金銭感覚、人に対する気持ち、礼儀…、厳しく教わったことはすべて感謝に変わりました。一人っ子で芸能一家という環境に生まれながらも、今こうしてやっていられるのは厳しく育ててくれたおかげだと。中でも金銭感覚は大きいです。「お年玉やお小遣いは相当もらっていたでしょう」と聞かれますが、普通に小学5年生で500円、6年生で600円でした。
家族で新幹線のグリーン車に乗った際には、母から「私たちは頑張って働いたから乗っているけど、本来あなたは乗れないのよ」と言われましたし、「お金が欲しい」と言ってもくれる親ではなかったから、学生時代は好きな舞台を観るために一生懸命アルバイトをしていました。
一番の思い出は、高校生の時に「携帯電話を買ってほしい」と頼んだことです。父が「理由を教えてくれ」と言うので、「皆が持っているから」と答えたら、「その理由では買わない。将来大人になった時“皆がしているから”といって自分もできる世の中ではない。欲しいなら理由を見つけなさい」と言われて考えました。
その頃は、家の電話もあるし公衆電話もある時代。数ヵ月よく考えた末、自分はただ人が持っているから欲しいのだと気づいて、父に「やっぱりいらない」と伝えました。その時のことは今でも忘れませんが、父が隣の部屋から携帯電話会社のパンフレットをいくつも持ってきて、「欲しくなったらここから選びなさい」と言ってくれた時は号泣しました(笑)。
今でも何かを買う前には、本当に欲しいのかを考える癖がついていて、結局そんなに物欲がない人間に育ちました(笑)。お金の有無ではなく、本当に欲しい物なのかを考えられる人間に育ったことはすごくありがたいから、娘にも同じようにしています。今のところ、娘からは「ケチ!」とひどい言われようで、「あそこの家は買ってもらっているのに、この家にはお金がないのか」と責められています(笑)。いずれ彼女のためになると信じて続けています。
ちなみに、娘の性格が母にそっくりで、青いTシャツにジュースがこぼれて濃い青に色が変わっても「キレイ~」と笑って気にしないんですよ。「まぁ、いいか」精神で、まるで毎日母といるみたいです(笑)。
―将来は芸能界に進みそうですね。
美帆:今8歳なんですが、私が出演する舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』が長丁場(3時間40分)でも飽きずに観ているので、お芝居を観るのは好きみたいですね。でも、将来は歯医者になりたいそうです。
―獏さんは芸能生活50年を振り返っていかがですか?
獏:振り返ると、真っすぐ歩いてきたつもりが随分と曲がりくねって、数々の分岐点がありました。まずは『連想ゲーム』(NHK総合)。僕の名前を広く知ってもらうきっかけになりましたし、岡江久美子とも出会いました。僕たちの仕事は信用だから、一生懸命やると見てくれている人が必ずいて、次の仕事に繋がっていったと思います。
『ワイド!スクランブル』(テレビ朝日系)の司会は、すごく悩んだし大変だったけど多くのものを得ました。僕たち役者はフィクションの世界にいて、『ワイド!スクランブル』ではすべてが現実。現実の世界をしっかり見たことで、本質に何があるのか、何を言いたいのか、何を表現すれば物語ができるのか…といった目線が培われたと思います。
司会を務めた11年間は辛いことも多かったけど、反動で「芝居をやりたい」という役者としての思いがマグマのように溜まって、今噴出している気がします。美帆がいつも「人生に意味のないことはない。すべてに意味がある」とよく言っているけど、そのとおりだと思う。そして、意味のあるものにしていかなくてはいけないと思う。
―美帆さんの20年はいかがでしたか?
美帆:デビューしてから“二世”だということを突きつけられました。オーディションで役を手にしても「出来レースだ」「七光りだ」と言われて、辞めようと思ったこともありました。厳しい目や意見もたくさんあって…。
それでも、芝居が大好きだから挑戦を続けてきましたし、“大和田獏の娘”というフィルターなしで観てもらえるようになりたい、という思いがエネルギーとなって走り続けてきました。どうしたらもっとうまくなるのかということばかり考えている20代でした。
ありがたかったのは、先輩たちとの出会いです。森光子さん、夏木マリさん、キムラ緑子さん…挙げ切れませんが、こうなりたいと思わせてくれる方がたくさんいらっしゃいました。
中村勘三郎さんの存在も大きくて、二世の悩みを相談していたら、そもそも歌舞伎はそういう文化だし、「自信持って行け」と努力するしかないと教えてくださって、本当に先輩に恵まれました。
今の自分を支えてくれているのは、そういった人との出会いです。いただいたものを糧にして、いい役者になりたいと思い続けていたら20年経っていました。勘三郎さんたちが立ち続けたかったであろう舞台に立たせていただいているから、今も舞台が始まる前に必ず皆さんのことを思いながら、「やらせていただきます」と言って舞台に立っています。
―岡江さんの好きだったところ、教えてください。
獏:僕が惚れられたからな~(笑)。人を悪く思わないところかな。悪口を聞いたことがなかったし、それは人を許す力が大きかったのか、人のことを気にしなかったのか分からないけど、でも許すという感覚でもなかったと思う。それが一緒にいて楽だった。
美帆:多分視点が違うんだと思います。人の悪いところを見ない器用さもあったし、いいところを探すのが上手だった人ですね。ある意味、適当というか何に対しても「まぁ、いいか」精神がありました。
―少し落ち着きましたか?
獏:どういう状況が“落ち着いた”になるのかは分からないけど、前を向いて生きているからね。ご心配かけましたけど、戻らないことを思ってもしょうがないし、彼女がいないことは事実で、僕の中に空洞が生まれたことも、埋められないものがあるのも仕方がないことで、それを認めていくしかないということ。
毎日思い出すことはたくさんあるけど、それも大切なことで、確かに彼女がいたことの証で、僕が一緒にいたのも事実だから。自分もいつか必ずいなくなるわけだから、いい思い出を人に残していきたい。人にきちんと向き合って生きていこうと思っています。
美帆:過去は変えられないです。私はいつか母に会った時に「よく頑張ったね、ありがとうね」と言ってもらいたいだけだから…こう言うと泣きそうだけど、その目標さえあれば全部頑張れる。生きていくしかない。母が亡くなった日から思ってきました。母の死は、無駄ではないと思いたいんです。無駄にしないためには、私がどう生きるかだと。「あの死があったから今の私がいる」と言えるようにしたい。
母がそういう人なんです。「意味がないことはない、何か意味があるんだよ」と、思考の転換をして前向きに生きる天才ですから。私は、父の真面目さもちょっともらいつつ、明るくひまわりのように生きた母のポジティブさを受け継いだのが誇りで、これを使わない手はないと思っています。
「BAKUMIHO」も「こどもホスピス」の活動も、母の死後のことです。何かしたいという私自身のエネルギーが溢れて、抑えられないんです。「死」には、悲しみを優しさに変える力があると思います。これからも出会いを大切に生きていきたい。
獏:ここ数年、人との繋がりは本当に大事だと感じていて、これからもいい繋がりをたくさん作って大切にしていきたい。優しい人と繋がって優しい何かを外に伝えていきたい。それが「BAKUMIHO」の大きなコンセプトです。
美帆:優しさをプレゼントし合う、みたいなことでしょうか。優しさをたくさんいただいたので、何かで返したい。私たちは芝居をやってきた人間だから、芝居で返すのがいいかなと思っています。
【編集後記】
2人とも滑舌よくスピード感満載で話されたので、多岐にわたるお話を伺うことができました。獏さんとは『ワイド!スクランブル』でリポーターとしてご一緒させていただき、本気で現実世界と向き合った時間を共に過ごし、人生の大先輩ではありますが、戦友のような感覚を勝手に持っていて、今も交流を続けさせてもらっています。美帆さんは以前にも増してエネルギーに溢れ、お仕事の幅ももっと広げていかれるのではないかと感じました。今回お話を聞き、「BAKUMIHO」は3人のユニットなのだと確信しています。
■大和田獏(おおわだ・ばく)
1950年10月13日生まれ、福井県出身。1973年、ドラマ『こんまい女』(フジテレビ系)でデビュー。『連想ゲーム』(NHK総合)でレギュラー解答者として人気を集め、番組共演をきっかけに1983年、岡江久美子と結婚。『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)、『おんな太閤記』(NHK総合)など、多くのテレビドラマ・映画に出演。1998~2009年、『ワイド!スクランブル』(テレビ朝日系)で11年間司会を務める。近年は『ハヤブサ消防団』(テレビ朝日系)、トム・プロジェクト プロデュース舞台、劇団チョコレートケーキ『ガマ』など、舞台作品に積極的に参加。
■大和田美帆(おおわだ・みほ)
1983年8月22日生まれ、東京都出身。2003年、舞台『PURE LOVE』でデビュー。ミュージカル『阿国』、音楽劇『ガラスの仮面』、『アマデウス』、ミュージカル『DADDY』など多くの舞台に出演。映像作品も多数。近年は、子ども向け音楽イベント「ミホステ」、「横浜こどもホスピス」応援アンバサダーなどの活動を積極的に行う。現在、舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』にジニー・ポッター役で、『チョイス@病気になったとき』(NHK Eテレ)にMCで出演中。
■大和田獏・大和田美帆 芸能生活50周年&20周年記念公演 『BAKUMIHO』
【出演】大和田獏、大和田美帆、チェロ/中林成爾、ピアノ/YUKA
【開催日】2023年11月17日(金)
【会場】Tokyo fm ホール