呆れた骨抜きが進みつつある~ 「取調べの可視化」の議論はどうなっているか。
相次ぐ冤罪事件と捜査スキャンダルが話題になったのはつい数年前のことだ。
志布志事件、氷見事件、足利事件、郵政村木事件と、不当な取り調べにより捜査機関が冤罪を作り出していることが大問題となり、冤罪を作り出す捜査機関のあり方、特に密室での執拗な取り調べにより自白に追い込む捜査方法に社会から厳しい批判が寄せられた。
そんななか、今から約2年前に法務省の法制審議会に「新時代の刑事司法制度特別部会」が出来た。この機関は当然、冤罪を生み出した捜査機関の在り方を徹底的に検証し、冤罪を二度と生まないための抜本的な刑事司法改革を進めるものだと思われた。
当時の法務大臣は、初回会合のあいさつで、
この法制審特別部会が設置されたのだ、と語った。
「取調べ及び供述調書に過度に依存した捜査・公判の在り方を抜本的に見直し,制度としての取調べの可視化を含む新たな刑事司法制度を構築する」ことが特別部会の目的である。
委員には、村木事件の当事者で、無罪となった村木厚子さん、映画「それでも僕はやってない」の周防正行監督なども入ったので、さぞかし民意を反映して、抜本的な改革を進めてくれるのか、と思っていた。
ところが、2年間の間に何がされてきたのか、というと、法制審議会の常連の御用学者の方々、法務省関係者の方々によって、まんまと議論が牛耳られてしまい、徹底した改革とは程遠い議論をしている。
弁護士会等も改革に向けて攻勢をかけているというより防戦、という感じで、なんだかふがいない状況なのであるが、そんななか、呆れた骨抜きが進行しつつある。
今年はじめに「基本構想」というのがとりまとめられたのだが、あまりにも改革に後ろ向きなので、さすがにがっくりした。
http://www.moj.go.jp/keiji1/keiji14_00070.html(基本構想)
取調べの可視化のための改革議論はどう進んでいるか、というと、
●「一定の例外事由を定めつつ,原則として,被疑者取調べの全過程について録音・録画を義務付ける制度」という案と、
●「録音・録画の対象とする範囲は,取調官の一定の裁量に委ねるものとする制度」という案
が並列的に議論されている。
しかし、録音録画する範囲を取調官の裁量で決める、というのは言いとこどりをするだけでそもそも論外、むしろ冤罪を作り出す新たな原因になりかねない。ところが、どうみても論外なのに、まだこの案は消えていない。
では、「原則として全過程の録音録画を義務付ける」という案はどうか。
この点、今年4月に出された論点整理ペーパーを見て驚いた。例外という以下のような項目が挙げられていたのだ。
http://www.moj.go.jp/content/000110309.pdf
(なお、「1の記録」とあるのは原則的に取調べ過程の録画・録音を行うことである)。
唖然とした。あまりにもたくさんの例外事項が掲げられ、いずれも漠然とし過ぎている。
普通、原則に対し例外がある、という場合、例外というのは原則を貫けばどうしても不都合が生じる場合に、限定的に、明らかな必要性・合理性のもとに認められるべきものであるはずだ。ところがどうでしょう。
「十分な取調べをすることができない」「捜査上の秘密が害される」なんて、どんな事案でもそういえるだろう。
えん罪を防止する観点から、そもそも例外なく可視化をすべきなのに、こんなにたくさんの例外事項を検討し、漠然とした、いくらでも解釈で認める余地のある例外を認めてしまっては、取調べの可視化が骨抜きされるのは必至である。
共犯事件で報復の恐れがあるから、ということを盛んに主張する委員もいるようだが、これまでも供述調書は出てきたではないか。
録音・録画をすることとその公開の在り方を議論することは別であり、公開・流出による弊害は出口規制をすればよいのであり、冤罪防止のための制度的保障としての、録音・録画そのものをやめてしまう理由にはならないだろう。
こういう「例外」が広範で原則と例外が逆転している悪しき例は刑訴法にしばしば見られる。
例えば、「伝聞例外」。法律上は、伝聞証拠や供述調書は原則認められないことになっているのだが、条文上多数の例外規定があり、それが拡大解釈され、「調書裁判主義」と言われる、この「伝聞法則の例外」が書面・供述調書中心で有罪が決まってしまう日本の刑事司法の病理を作り出してきた。録音の例外をたくさん認めることになれば、こうした、これまでの在り方と同じ過ちを犯すことになりかねない。
誰がこんな論点整理したのか、といえば、事務局をつとめる法務省であろう。
可視化などやりたくない法務省がとりまとめをしていることこそおかしいのだが。
しかも、この議論は、「作業分科会」にわかれて行われているのだが、「作業分科会」は法律のプロだけが参加できる仕組みになっていて、村木さんや周防監督は「分科会」のメンバーとして参加出来ないことになっている。一般の傍聴も許されていない。まさに密室で(議事録が後から公開されるだけ)、結局専門家だけで、法務省優位で、決めてしまおう、ということなのである。
見た目、いかにも過去のことを反省したかのような、立派な機関が設置され、国民が「きちんと議論しているんだろうな」と監視の目を緩めると途端にこうである。
捜査機関や官僚機構は油断も隙もない。改革する気がほとんどないのだ。
その一方で、「可視化をするから新しい捜査手法が必要」として捜査機関はこれまで禁じ手とされた捜査権限まで拡大しようとしている。そのひとつは「盗聴」の拡大である。まさに焼け太りだ。
民主党政権当時と異なり、谷垣法務大臣も捜査機関に本当に大甘であり、改革の意思もなければ、リーダーシップも皆無だ。
まさに法務・検察官僚の言うまま、という感じで残念である。
えん罪をなくす、という原点はどこへ行ったのだろうか。
鹿児島の志布志事件では、ありもしない選挙違反事件を警察がでっちあげた。人々を追い詰めて自白に追い込む、というやり方で。
取調べがあまりに過酷で、入水自殺を図る人まで現れるほど追いつめられたのだ。
足利事件では、密室の自白で有罪とされ、無期懲役判決を受けた菅家さんが、実はDNA鑑定の結果、完全無罪だったことが明らかになった。
私が担当している死刑囚・奥西勝さんは、自白をしたときは35歳。密室の取調べに屈して自白をした、たったそれだけのために、87歳になった今も無実の死刑囚として苦しみ続けているのだ。とても許せないことだ。
ほかにも布川事件の櫻井さん、杉山さん、東電OL事件のゴビンダさん、えん罪は人の一生に取り返しのつかない被害を与えている。
人を追い詰めて虚偽の自白に追い込み、えん罪の犯人に仕立て上げ、人生と自由を奪う冤罪。
その悲劇を二度と繰り返してはならない、という反省はどこにもないのだろうか。
国連拷問禁止委員会の先日の勧告でも取調べの可視化は求められたが、そうした勧告を真摯に受け止める気もないのだろうか。
こんな無反省・無改革・焼け太りをそのまま見逃していてはならないと思う。
今度の6月14日には、民間の委員も入った特別部会の全体会合が開催され、議論の方向性を決める突っ込んだ議論がされることも予想される。議論はこのままでは、改革とは縁遠い方向に収束していく可能性がある。何十年に一度の刑事司法改革の機運も、潰されてしまうかもしれない。
捜査側の委員は市民の監視がないのをいいことに、可視化の例外を拡大する議論を好き勝手に展開し、禁じ手とされた捜査手法をもっともっと必要だ、と主張するのではないかと思われる。御用学者と言われる人々は、村木さんや周防監督が発言しても、適当な論理を繰り出して誤魔化したり押さえつけたりして、強引に、捜査側の望む方向に議論をリードするかもしれない。
是非誰がどんな役割を果たしているのか、きちんと市民の皆さんに厳しく監視してもらいたいと思う。
えん罪の悲劇を繰り返さないきちんとした改革を実行させるために、今、市民の厳しい視線を注いでいくことが必要だと思う。
メディアも是非十二分に監視機能を担ってほしい。