【戦国こぼれ話】名君の条件とは何か?黒田官兵衛が名君と評価された理由。
■政治家には期待できるのか!?
現政権が発足して、さまざまな政策に着手している。コロナ禍において、日本国民はすっかり疲弊している。何とか盛り返してほしいものである。ところで、昔から理想的な名君像が絶えず問われてきた。実際に名君と称された大名も存在する。
ここでは、福岡藩の礎を築いた黒田官兵衛の逸話を取り上げて、考えることにしてみよう。
官兵衛は播磨の生まれ。もともとは播磨の一土豪にすぎなかったが、織田信長、豊臣秀吉に仕えて頭角をあらわした。やがて、官兵衛は豊前中津(大分県中津市)の大名となり、関ヶ原合戦後には子の長政が筑前名島(のちの福岡)を与えられた。以後、幕末まで福岡藩は存続した。
■威厳に満ちた官兵衛
官兵衛の有名な言葉として「大将は威厳がなくてはならないが、威張って下を押さえ込むのではだめだ」という言葉がある。この言葉には、いったいいかなる意味が込められているのだろうか。
官兵衛は硬骨漢として、芯の強い人物としても知られている。天正6年(1578)、摂津有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重が信長に叛旗を翻した際、官兵衛は村重に降参を促すため、単身村重のいる有岡城へ乗り込んだ。しかし、官兵衛は村重に捕らえられ、牢に幽閉された。
官兵衛が解放されたのは翌年であったが、牢での劣悪な環境の影響もあり、膝を痛めて生涯にわたって歩行に難をきたした。一方で、その芯の強さや正義感は、生涯称えられることとなった。
そのような官兵衛は、常に将たる者の心構えを説き、自ら実践した。先の言葉は、その一つである。人は上に立つと、必要以上に威張ったり、失敗をごまかすなど、勝手な振る舞いをするようになる。そうなると部下の心は徐々に離れ、国を滅ぼす要因となる。
まずは自らが身を修め、信賞必罰を明確にすれば、臣は必ずついてくる。そうなると自ずから威厳が備わり、風格を醸し出すようになると、官兵衛は言いたかったのである。
■倹約家だった官兵衛
優れた軍略家として知られる官兵衛は、倹約家としても有名であった。特に、無用な出費を極力避け、贅沢をあえてセーブしていた。身の回りの品も、決して華美なものではなかったという。
たとえば、材木の切れ端なども、捨てずに必ず貯めることにしていた。その切れ端は、風呂焚き用に用いられたのである。また、庭には梅の木を植え、そこから収穫される梅を梅干として食用とした。
ではいったい、貯めたお金は何に使っていたのであろうか?
官兵衛は倹約で貯めこんだお金を貧しい人に施し、惜しむことなく大胆に振る舞った。その振る舞いぶりは、家臣が諌めるほどであったという。また、いざというときのための戦費としても、蓄えは続けられた。そのため家臣にも倹約を奨励し、家臣もまたそれに従った。
このように倹約が徹底すると、家臣や領民にもその心が芽生えだす。皆が身の丈にあった生活を尊び、また出陣にも対応できるように、武具を整えるようになった。そのため、かえって領民は富み、領国に安定をもたらすことになったのである。
■死ぬまで家臣を欺いた官兵衛
知将として知られる官兵衛は、その死の瞬間まで人を欺き続けた。
官兵衛は病に伏してから、家臣たちを呼びつけ、次々に罵ったといわれている。家臣たちは、官兵衛が「ご乱心」であると恐れおののいた。しかし、これは官兵衛の謀略でもあった。ある日、たまりかねた家臣たちは、長政に父の官兵衛を諌めるように注進した。
官兵衛は枕元の長政に対して、「家臣にひどい仕打ちをするのは、自分が早く疎まれて、長政の代になって欲しいと思わせるためだ」と囁いた。つまり、官兵衛が家臣に憎まれごとを言えば、家臣は官兵衛を快く思わず、早く長政の代になって欲しいと願うであろうことを期待していたのである。
なぜ、そのようなことを考えたのか?
当時は、主人が亡くなると、殉死する慣習があった。官兵衛は殉死によって、優秀な家臣が死ぬことをも恐れたのである。自分が憎まれれば、殉死も無くなり、優秀な家臣は長政に引き継がれることになる。
そのように官兵衛は述べると、後事を股肱(ここう)の臣である栗山大膳に託した。長政には「大膳を父と思え」と言い残し、大膳に長政の教育係を命じたという。官兵衛はかねてから、自分の死ぬ日を予言していたが、その予言した日に亡くなったのである。
このように官兵衛に関するエピソードは盛りだくさんであるが、名君としての官兵衛への期待が込められているといえよう。
現政権の皆さんにも、官兵衛から名君のあり方を学んでほしいものだ。