公開なくして公費なしーパブリック・マネー、パブリック・データ、パブリック・コード
このところ、日本でも違法ダウンロードの強引な範囲拡大等を含む著作権法改正が話題となっているが(読売新聞の記事)、最近EUでも著作権絡みで興味深い動きがあった。その一つが公共部門情報(Public Sector Information、PSI)指令の改定を巡る議論である。
EUにおける指令(Directive)とは、具体的な立法は加盟国に任されるが、指令で定められた目的の達成が加盟国に要求される法の一種である。2003年に初めて出されたEU PSI Directive (Directive 2003/98/EC)以来、EUでは、公的機関が作成、保有する情報資源の再利用推進が基本方針として掲げられてきた。この指令は10年後の2013年に一度改定され(Directive 2013/37/EU)、さらに2018年春、再度の改定作業が始まった。
この指令は、当初は主に公文書の公開を想定していたと思われるのだが、その後政府機関が持つデータ一般への範囲拡大を求める声が強まり、2013年の改定では、高い機械可読性や限界費用価格付け(ようするに実費を除き無償提供)の推奨など、商用、非商用を問わず誰でも自由に利用できるライセンスの下、再利用が容易な形式での公開が明確に求められるようになった。これが、いわゆるオープンデータ運動を支える根拠となったのである。
さらに今回の改定では、公費で助成された学術研究に関し、得られたデータは原則公開することを義務付ける方針が打ち出された。こうした「オープン・バイ・デフォルト」の流れに対し、一部の研究者と企業は、「可能な限りオープンに、必要なだけクローズに」(as open as possible, as closed as necessary)を旗印に猛然と巻き返しを図り、結局最終案には「機密性」(confidentiality)と「正当な商業的権益」(legitimate commercial interests) が理由ならばデータを非公開にすることができるという抜け穴ができてしまったらしい(SCIENCE|BUSINESSの記事)。バランスをとったと言えば聞こえはいいが、機密性や商業性が見込める研究なら最初から公費を受け取らなければ良いだけの話で、「コストは社会に、収益は自分に」という企業のエゴに折れたとも言える。可能な限り〜というなかなかキャッチーなスローガンが欧州議会への説得に影響したかもしれない。まだ確定したわけではないが、残念な結果だ。今後の再改定を待ちたい。
ところで、データもさることながら、公的機関はプログラムコードも大量に保有している。これらも学術研究同様、基本的には公金によって開発されたはずである。ゆえに、公共部門が有するプログラムコードも原則公開すべきだ、と主張するのが、FSFE(欧州フリーソフトウェア財団)のPublic Money, Public Codeというキャンペーンだ。アメリカの本家EFFやクリエイティヴ・コモンズ、ウィキペディアを運営するWikimedia財団やWordPress、私が属するDebianといった様々な団体が支持を表明している。
納税者たる国民の税金で書かれたコードを、なぜ国民が広く利用できないのか、というシンプルなロジックに抗するのはなかなか難しいと思う(まあ、EUの税金なのだからEU域内に限定すべきだ、という主張もできなくはないが)。また、似たような業務を行っている以上、省庁間、各国政府間で同じようなコードが書かれているはずで、車輪の再発明が防げて税金の節約にもなるだろう。そもそも近年はデータに比べコードの価値が相対的に下がっているということもあり、今後は欧州以外でも、プログラムコードに関しては「公開なくして公費なし」が基調になっていくのではないか。
日本においても、先日話題となった厚生労働省の毎月勤労統計不正に関する報道で、官庁ではCOBOLで書かれた年代物のコードが未だに使われているということが明らかになった。データは機密かもしれないが、コードは別に機密ではないだろうし、広く公開して誰でも監査できるようにすべきと私は考える。公開しても誰もソースなんか見ないという人もいて、確かにそうかもしれないが、「その気になれば」検証できるというのが重要なのだ。海外では学生のプロジェクトとしてコードの監査や結果の再現可能性を検証させているケースもあり、教育的見地からも価値が高いと思う。