【オウム裁判】平田被告に厳罰
無罪を主張していた、自作自演の爆弾事件が有罪。しかも量刑は懲役9年。
判決は平田信被告には、きわめて厳しいものとなった。
共犯者に比べて際立って重い
裁判所も、井上嘉浩元幹部(死刑囚)の証言の信用性については、誇張や変遷があるなどとして慎重な判断を要するとしたが、弁護側が幇助犯としての関与だったと主張していた假谷さん拉致事件では、現場のリーダーだった中村昇元幹部(無期懲役刑を受刑中)、無罪主張の爆弾事件では井上と共に爆弾を仕掛ける現場に行ったS元信者の証言を重視して、平田被告の主張は「信用できない」と一蹴した。
この判決は、共犯者と比べても、格段に重い。同じ事件に関与し、しかも假谷さん事件では被害者を車に押し込み、爆弾事件などでは実行犯の運転手を務めるなど、平田被告よりずっと犯罪への関与が大きいI元信者が懲役6年だったのに比べると、今回の量刑の重さは際立っている。この量刑は、あまりにバランスを欠いているのではないか。
遺族以上に厳しい評価
判決で示されている、他の信者との違いは、「長期間の逃走」だけ。この逃走によって「刑事司法や社会に与えた影響は軽視できず」と指摘している。一方、自ら逃亡生活に終止符を打って出頭したことは「遅きに失した感が否めない」と著しく評価が低い。また、假谷事件で遺族に繰り返し謝罪していること、遺族との間で和解が成立していること、同居していた女性と共に800万円を遺族や教団の犯罪被害者支援機構に支払ったことなども弁護側が情状としてあげていたが、判決はこれについても「被告人が働いて得た金員ではない」「不自然な弁解を続けている」とそっけない。むしろ、遺族の假谷実さんの方が、「記憶に従って誠実に供述していると感じた」と平田被告の反省の姿勢を評価しているくらいだ。
今回の裁判は、オウム事件で初めての裁判員裁判で行われた。加えて、遺族の実さんが被害者参加人として裁判に関わった。実さんの証言や被告人に対する態度は、心打たれるもので、おそらく裁判員たちの心も揺さぶられ、同情し、そして共感したに違いない。一方、迅速な審理の必要もあってだろう、オウムに引き寄せられた者が、なぜ教祖に自分を預けてしまい、自分自身の判断力を失っていくか、というカルト特有のプロセスについては、裁判員たちが判断のための材料が与えられなかった。
信者の依存心を断罪
判決後の裁判員たちの記者会見で、私は2つの質問をした。1つは「オウム犯罪の特徴は何だと思ったか」という点。多くの裁判員から「思考停止」という言葉が出た。裁判の最初に登場した元信者のA子さんの証言が印象深かったのかもしれない。それを聞いて、私は2つ目に「なぜ、そういう状態に陥ったと思うか」と尋ねてみた。
信者の「依存心」を挙げる人が相次いだ。平田被告に関しては、こんな厳しい評価もあった。
「(平田被告は)師を探していた、と言っていた。それが依存だと思う。性格的に誰かに依存していないと生きていけないのでは。自分で判断する思考がないのかな、と思った。(教団の)中では麻原に依存し、逃げている間は女性に依存していた」
「薬物の使用や睡眠・食事などの制約などによる肉体的コントロール」や「出家制度によって帰る場所がなくなった」点を挙げる人もいたが、出家制度についても「(教団の中では)人の言うことを聞いていれば、生活できるから楽」という意見もあり、総じて「思考停止」は「依存心」の強い信者の”自己責任”と考えているようだ。
話を聞いている限り、何らかの事情で、自分や身の回りの人たちも、もしかしたらそういう集団に関わってしまうかも…と考えた裁判員はいなかったらしい。
健全な社会人の正義感の発露
裁判員たちが、いずれもまじめに生活する市民であることは、その話しぶりからもよく分かった。裁判員として審理に関わりながらも夜や休日には仕事をする人もいて、責任感の強さがうかがえた。車いすの女性は「ハンディキャップがあっても、裁判員を務めることができるんだと知っていただきたい」という使命感で連日の審理に望んだ。
今回の厳しい判決は、健全な社会生活を営む人たちの正義感の発露と言えるだろう。ただ、そういう立場からは、自分が被害者になることは想像できても、自分や身内からオウム信者が出る、ということはイメージしにくいのだと思う。だったらなおのこと、信者となった人たちが、自分を他者に預けてしまい、思考停止の状況に陥っていくプロセスは、より丁寧に提示していく必要があるだろう。また、教団の武装化の中では、バカバカしい失敗事例が山ほどあった。厳格な戒律や教祖の指示は絶対とする掟がある一方で、幹部や古参信者のそれと矛盾するいい加減でテキトーな部分もあった。このような全体像も見据えるべきだろう。
裁判員の中からも、「高橋克也の話が聞きたかった」「事件に関わった人全員の話を聞いてみたい。麻原にも証人として出てきてほしい」という声も出た。
オウム事件は裁判員裁判になじむか
ところが、通常の裁判より迅速化が求められる裁判員裁判では、審理の効率化が重視される。採用される証人は、裁判員が関わる以前の公判前整理手続きで決定され、公判スケジュールも決められる。過去のオウム裁判では、弁護側が求めれば、カルトに詳しい心理学者や精神科医の鑑定や証言も行われたが、今回の平田裁判ではそれさえ実現しなかった。
曲がりなりにも、死刑囚の証言が法廷で行われたのは、裁判員裁判ゆえだったかもしれない。その点では、メリットもあるのだろうが、それでも、オウム事件の裁判は裁判員裁判にはなじまないのではないか、という思いを私は強くしている。
これから公判を迎える2人の被告人、とりわけ假谷事件や地下鉄サリン事件、VX殺人事件、都庁爆弾事件に関わっている高橋克也被告の場合は、事件数も多く、死刑求刑もありうる。より慎重で十分な審理が求められ、果たして裁判員裁判でやるべきなのかどうか、もう一度考えた方がいいのではないか。