【九州三国志】忠義の乱、都城に燃ゆ!伊集院忠真と12城の抗戦、その影に宿る絆
慶長4年(1599年)、筆頭家老・伊集院忠棟が島津忠恒によって伏見で斬殺された報せは、都城を統治するその嫡子・忠真を大きく揺るがせました。
忠真は忠棟の死後、宗家への従属を示すべく島津義久へ伺候したものの、義久は一族の完全排除を意図し、庄内への通行を禁じたのです。
自らの存亡をかけた忠真は、やむなく広済寺住職である白石永仙の提言を受け、反旗を翻すことを決意。
都城12外城を中心に守りを固め、兵約8千で島津氏の猛攻を迎え撃つこととなりました。
都城には梅北城、志和池城、山田城などを含む堅固な外城群が連なり、忠真はこれらに一族や家臣を配置。
戦略上の要地となった各城には歴戦の武将たちが布陣し、物資の支援では加藤清正や伊東祐兵も密かに関与しました。
忠真の兵力は約8千とされ、数の上では劣勢ながら、巧みな防衛戦術で島津軍を迎え撃ったのです。
一方、島津忠恒は徳川家康の許可を得て帰国し、総勢3~4万の兵を率いて庄内に進軍。
緒戦で山田城、恒吉城を攻略したものの、戦況は次第に膠着状態に陥りました。
忠真方の知将・白石永仙は計略を駆使し、忠恒軍の士気を削ぐ一方で、志和池城を包囲する敵軍に巧みに抵抗。
兵糧攻めにより城内は窮乏を極めるも、忠真の戦意は衰えず。
財部城や恒吉城では義久自ら出陣するも、勝利を収めることはできませんでした。
一方、島津側の戦傷者も増え、戦いは両者ともに消耗戦となっていきます。
忠真と12外城が織りなした抵抗は、島津氏の内部抗争を象徴する激戦として後世に語り継がれます。
その影には、忠棟の死を越え、一族を守ろうとする忠真の揺るぎない意志と、彼を支えた家臣たちの絆が色濃く刻まれているのです。