樋口尚文の千夜千本 第3夜 「ジェリー・フィッシュ」(金子修介監督)
失われしロマン=ポルノ的深淵を求めて
繊細でどこかクラスで浮いているような、ひとりの多感な女子高生・夕紀が、水族館のジェリー・フィッシュの水槽の前でクラスメートのちょっとミステリアスな美少女・叶子に誘われ、キスをする。男性経験はあっても気持ちが満たされることはなかった夕紀は、同性の叶子に強く惹かれるが、クラスの男子に言い寄られて体を与える叶子に複雑な思いを抱く。この作品で描かれるのは、夕紀と叶子の性愛を軸にした感情のさざなみである。こういう性にとらわれた人間のありようを細やかに描く映画の領分には、今やそうありつけるものではない。ファミリー向けのシネコンが一般的になってしまった現在の映画興行から、この種の蠱惑的な映画の居場所が失われて久しい。
かつてそんな領域から数々の傑作が輩出したのが他ならぬ日活ロマンポルノであったわけだが、性表現の自由さや過激さという点では古色蒼然たるその秀作群が未だ輝きを放つのは、そこに性愛に呪縛された人間のエモーションが濃密に、鮮やかに描き出されているからである。さらに遡った群小プロによる「ピンク映画」とは違って、しっかりとドラマもある撮影所映画なのだ、というふれこみから生まれたに違いない「ロマンポルノ」という造語は秀逸だ。確かに日活ロマンポルノのかなめは「ロマン」なのであり、それも当時の他社の一般映画が踏み込めなかった「ポルノ」=性的主題ゆえに到達できた「ロマン」の深淵なのだった。
今の時代は往時より性表現の敷居は低くなっているかもしれないが、(見世物的な露骨さはかつてより際立っても)こうしたロマンポルノ的な領分を真摯に、精神的に煮詰めた作品にはそうそうお目にかかれない。「デスノート」や平成「ガメラ」などの大作監督として鳴らした金子修介監督のホームは日活撮影所で、ロマンポルノ路線の終盤に「OL百合族19歳」という作品も監督している。当時の日活のアイドル女優だった山本奈津子、小田かおるによる「百合族」シリーズが好評を博しての第三弾であった。その頃から金子演出はいともさらりと少女たちの動静をとらえて、鮮やかな青春の断章を綴ってみせていたが、「ジェリー・フィッシュ」には約三十年の時をワープして、この少女たちのリーインカーネーションを見る思いであった。
ただ大きな違いは撮影所映画を遠く離れたこのたびの小さなデジタルムービーにあって、金子演出も、受けて立つ大谷澪、花井瑠美の主演ふたりも、格段に自然に、ありのままを映すかのような雰囲気になっていることだ。そして、もはや裸をさらすことも性の演技をすることも、日活ロマンポルノ時代よりはるかに日常の生と地続きになっている。しかるに、この生と性の境界を融溶させて、人間のありようを凝視することこそがロマンポルノに賭けた作り手たちの夢であったとしたら、「ジェリー・フィッシュ」ではいとも軽々とそれが実現されていることが感動的だ。
ここで描かれる少女たちの感情のさざなみや疼痛はごく些細なものだが、映画がそんな彼女たちの言葉や肢体の演技と同期しながら輪郭づけていく性=生の甘美さや残酷さはかけがえのないものだ。自然なうえにも自然な少女たちは、この映画が興行の切り口としてまとうかもしれない「百合族映画」ふうの風俗的要約をはるかに超えた、豊かな地平にまでてくてくとたどり着いている。百合族興味でも裸目当てでも、もう何でもいいからぜひ多くの観客がこの作品を観て、その青春いや性春の切実さにふれてほしいと思う。
最後に、ある種性に引き裂かれた立場を受け入れようとするミステリアスな叶子に扮した花井瑠美の存在感は出色だった。金子監督が多くの志願者の中から選びぬいたという花井は、新体操のキャリアは華々しくも演技は未経験という人材で、この抜擢は本当にさすがだと思った。花井瑠美の特異な雰囲気ある美貌と鍛えられた肢体がそこにあるだけで、映画が動き出す感じであった。どんな演技的なメソッドよりも、このネイキッドな魅力あふれる素材感は映画に味方するものだ。