6歳から小姓として仕えた家康股肱の臣、平岩親吉のルーツ
29日、大河ドラマ「どうする家康」の総集編が放送された。
このドラマに当初から登場していた、岡部大演じた平岩親吉。一般的な知名度は低いが、家康股肱の臣である重要な人物であった。
しかし、その最期は描かれず、江戸時代の大名家にも平岩家は存在しない。
平岩氏のルーツ
平岩氏は三河国額田郡坂崎郷(現在の愛知県額田郡幸田町久保田)の出で、武家としては珍しく弓削姓を称している。『寛政重修所家譜』でも、弓削姓の項目には平岩氏しかない。
弓削氏とは弓の製作にあたった古代氏族で、各地にあった。とくに有名なのが河内国若江郡弓削郷(現在の大阪府八尾市弓削町)を本拠とする弓削氏で、ここからは奈良時代の僧、弓削道鏡が出ている。
さて、『寛政重修所家譜』によると、親吉の先祖照氏は三河上野城に拠って上野氏を称し、新田義興に仕えていたという。その後、氏貞の時坂崎郷に住んで今川氏に属し、平岩氏と改称した。これは、坂崎郷の館のそばに巨大な岩があり、その上面が平だったため「平岩」と呼ばれたことに因んでいるという。
松平氏譜代の家臣に
その後、重益の時に三河の松平信光に従い、その子親重は松平長親・信忠・清康と3代にわたって仕え譜代の家臣となった。
この親重の長男が親吉である。親吉は天文11年(1542)の生まれで徳川家康と同年であったことから、幼少期から家康の側近となった。同16年には数え6歳で織田家に奪われた家康とともに信長のもとに送られ、そのまま家康の小姓として駿府に転じた。
以来、家康股肱の臣として活躍。天正4年(1576)には信長の命を受けた家康の代わりに三河大樹寺で家康の母方の伯父・水野信元父子を誅殺。また家康の嫡男信康の傅役として信康を補佐するなど、常に家康の近くにあり、その意を受けて活動した。
親吉のその後と子孫
天正18年の関東入りで、親吉は上野厩橋3万3000石の大名となった。関ヶ原合戦後には甲斐府中6万3000石に加増され、さらに尾張藩付家老となって犬山城主となったが、大坂の陣前の慶長16年(1611)に跡継ぎがいないまま死去した。
実は、親吉には子どもがいなかったことから、家康は自らの八男仙千代を養子として与えている。しかし、仙千代は親吉に先立って早世。結局親吉の死で平岩家は断絶した(養子は仙千代の兄松千代であったともいう。いずれも早世)。
家康にとって、平岩親吉はわが子を養子に出しても残したいほど深い絆で結ばれていた。
嫡流は断絶した平岩家だが、親吉の弟正広の末裔が旗本として存続した他、一族の末裔は尾張藩士となっている。