最低賃金1000円では国際競争に勝てない?
全国一律1500円がグローバルスタンダード?
岸田文雄首相が、3月15日の経済界、労働団体の代表者による「生労使」の三者会議に出席した際、2023年に最低賃金を1000円に引き上げる目標を示した。2022年の最低賃金が961円だから、40円近い引き上げになるわけだが、節目となる1000円台に届くことになりそうだ。しかし、円安の影響もあって、この最低賃金では日本経済は復活できない、という疑問の声も多い。最低賃金1000円では国際競争に負ける可能性があるのだ。
そもそも、なぜ日本の最低賃金はこの30年間ほとんど上昇して来なかったのか……。いまや、日本の最低賃金はG7の中では最低であり、一人当たりの年間所得が一定の金額を超えた「先進国」の中でも最低水準になりつつある。日本の最低賃金が上がらない仕組みを考えながら、適正な水準を考えてみたい。
いまだに減少を続ける日本の実質賃金?
ロシアによるウクライナ侵攻以降、エネルギーや食料品などの価格が急騰し、世界的なインフレが蔓延している。そんな中で、日本にもインフレの波が押し寄せて、日本の消費者物価指数は前年同月比で4.3%(総合指数、2023年2月)に達した。そんな状況から、政府主導による賃上げムードが広まり、30年間目立った上昇がなかった賃金が上がるきっかけになっている。
2023年の春季労使交渉も、製造業の8割が満額回答になるなど、大手企業の賃上げはこれまでとは違った動きになっているように見える。日本でも、やっと賃上げのムードが高まってきたわけだ。とは言え、日本商工会議所の発表では民間の従業員数の約7割を占めている中小企業の賃上げは、全体の6割にとどまっているそうだ。
中小企業がいまだに賃上げに積極的ではない背景には、原材料の値上げや運賃等の値上げなどによってコストが上昇している中で、いまだにクライアントから価格交渉にさえ応じてもらえない企業が多いという現実がある。下請け会社が価格転嫁できていない状況の中で、従業員の賃金上昇まで手が回らないというのが現状といっていい。
実際に、日本の賃金は統計上は現在も減少し続けている。厚生労働省が発表した23年1月の「毎月勤労統計調査」によると、一人当たりの賃金は物価変動を考慮した実質で、前年同月比「マイナス4.1%」となっている。この数字は、消費税引き上げ直後の2014年5月以来8年8ヶ月ぶりの減少幅になる。実質賃金のマイナスは、リーマンショック直後の2009年12月のマイナス4.2%に次ぐものだ。実質賃金は物価上昇分を考慮に入れた数字だから、いかに賃金を上回る物価上昇が進行しているかがわかる。
同統計によると、現金給与総額の平均は27万6857円。前述のように、物価の上昇率は2023年1月で4.3%。物価が4%を超える値上がりをしているのに、実質賃金がマイナス4.1%。いかに、人々の暮らしがひっ迫しているかがわかるはずだ。現在の日本の労働者の置かれている平均値と考えていい。
日本の低賃金は労働力の海外流出を意味する?
さて、日本の最低賃金が国際的に見て低いレベルにあることは歪めない事実として、その影響について考えてみたい。そもそも現在の日本の雇用体系は、非正規雇用者が全体の4割を占めており、それらの人々が最低賃金ではないにせよ、かなり低い労働賃金を強いられていると言っていい。そもそも、正規雇用者と非正規雇用者との間の賃金の格差はどのぐらいあるのか。
厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」の「正規雇用労働者・非正規雇用労働者の賃金の推移(雇用形態別・時給(実質)ベース)」によると、その差は歴然だ。
・一般労働者(正社員・正職員)……1976円
・短時間労働者(正社員・正職員)……1602円
・一般労働者(正社員・正職員以外)……1307円
・短時間労働者(正社員・正職員以外)……1103円
これだけの格差がある現実を踏まえると、やはり最低賃金を思い切って上昇させないと、日本経済の根底にある「低賃金体質」から脱却できないのではないか、という印象を受ける。
ちなみに、正規社員と非正規社員の賃金格差は、日本以外ではどうなっているのか。たとえば、「無期雇用者に対する有期雇用者の時間当たり賃金の比率」というデータを見ると、次のようになる(無期雇用者を100%とした場合、2010年、2014年、2018年の値の平均)。
・イギリス……85.1%
・フランス……81.1%
・イタリア……78.8%
・ドイツ……73.6%
・日本……64.7%(賃金構造基本統計調査)
(リクルートワークス研究所、全国就業実態パネル調査「日本の働き方を考える2022」2022年11月30日より)
これだけ、日本の賃金が低いとどうなるのだろうか。低賃金であれば、海外から日本に進出する製造業などが増えるかもしれないし、日本企業は低コストで制作した商品を海外でより安く販売できることになる。その反面で負の要素もある。
たとえば、海外からの労働者が大きく減少してしまう可能性がある。1ドル=150円台をつけた円安時には、日本で働く出稼ぎ労働者の多くが、日本では仕送りができないと言って、海外に帰ってしまったと言われている。技能実習生なども、今後はなかなか来てくれなくなるかもしれない。
10年遅かった少子化対策、今後は日本人が出稼ぎに?
政府は今頃になって少子化対策に本気になっているが、労働力不足に対しては、どう考えても間に合いそうもない。これまでもそうだったように、海外からの労働力をあてにするしか方法は無いようだ。
しかし、日本の最低賃金が現在のように韓国や中国都心部のレベルにも負けるようなことになれば、日本に働きに来る労働者は、減少の一途をたどっていくことになるかもしれない。発展途上国の労働者が日本に働きに来る大きな理由は、高い賃金だったわけだが、最近では韓国や中国に働きに行く労働者が増えていると言われている。
加えて、日本には「日本語」が最低条件となっていることも気になる。今のまままでは、日本で働く外国人は激減していく可能性がある。今後、日本は深刻な人手不足に直面することになる可能性が高い。
そうした事態を回避する意味でも、最低賃金を他の国のレベルと同程度にしなければならない。そして、日本語に対する期待値のレベルを大きく下げることが必要だ。例えば、米国の小売り大手のウォルマートは最低時給を14ドルに設定したそうだが、現在の為替レートで考えると1850円程度になる。ここまで高くなくても、やはり1500円程度が妥当な最低賃金と言えるかもしれない。
実際に、全国労働組合連合会(全労連)は「全国一律の最低賃金」を「1500円」に引き上げるように要求している。1500円は1日8時間働いて暮らしていける最低限の数字であり、国際的にはほとんどの先進国がすでに実現している最低賃金と言われる。現在の為替レートから考えても、1500円は適切なレベルと言っていい。1500円ではとてもやっていけないと言う企業が多いのも事実だが、経営者は内部留保などを取り崩してでも「最低賃金=1500円」を確保するぐらいのマインドを持つ必要があるのかもしれない。
若年層の失業率が高まる、デジタル化への急激なシフトが起こる、といったマイナス面もあるのだが、全国一律の最低賃金は国土の狭い国では日本ぐらいで、日本の労働政策は世界的には異質と言っていい。対応が遅れれば、それだけ日本は時代の変革に乗り遅れることになる可能性が高い。
初任給40万円でも優秀な人間が海外から来るとは限らない
ITの大手企業が、初任給を40万円に引き上げたことが大きなニュースになったが、それでも国内から優秀な人間を集めることができても、海外から優秀な人間を取り込めるかがポイントになってくる。例えば、前述したように日本企業は、海外から日本に働きに来る労働者にネイティブに近い日本語を求めているが、国際的に見ると、これは大きなハンディキャップになる。21世紀のIT時代の中で、日本語にこだわった雇用をしたのではとても優秀な従業員は集まらない。
また、ベトナムなどから多数来ている技能実習生の問題も、最低時給が現在のレベルでは先行き不透明になる。労働集約型の産業は、これからますます人手不足に悩むはずだ。海外の優秀な労働力を確保するには、少なくとも自分の母国に十分なお金を送金できるだけの賃金を用意しなければ、日本には来なくなるだろう。
最低賃金1000円というのはやっとたどり着いた達成感があるのかもしれないが、現実はもっと厳しいことを政府は理解するべきだ。中小企業の中には経営が成り立たなくなるところも多くなるかもしれないが、内部留保を抱える大企業を中心に、いまこそ利益を吐き出してでも発注先企業の利益を優先すべきだ。飲食店なども、きちんと値上げして、従業員の利益を確保できることを目指すべきだ。