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【戦国こぼれ話】世間の評価は厳しい!豊臣秀吉は、同時代の人からどう思われていたのだろうか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
島津氏の家紋。島津氏は豊臣秀吉を侮り、バカにしていたが、最後は敗北を喫した。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

■評価の難しさ

 未だに、アメリカ大統領選の結果が出ていない。政策が相反する両大統領をめぐっては、アメリカ国民の評価が2分している。大統領選では2人の候補が論争、いや口論を繰り広げ、国民も大いにヒートアップしているのはその証左だろう。

 両候補は互いに激しく罵りあっていたが、人の評価は難しい。天下人の豊臣秀吉も同時代の人々にいろいろと厳しく評価された人物である。当時の人は、秀吉のことをどう思っていたのだろうか。

■安国寺恵瓊(えけい)の書状

 最初に取り上げるのは、毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊の書状である。恵瓊は織田信長の失脚と秀吉の将来の成長を予言するなど、人間に対する洞察力が非常に優れた人物であった。

 その恵瓊が秀吉との領土割譲を交渉していた天正12年(1584)1月、秀吉を評して「若い頃は一欠片(ひとかけら)の小者(下っ端の取るに足りない者)に過ぎず、物乞いをしたこともある人物であった」と述べている(『毛利家文書』)。

 恵瓊は外交僧を務めるだけのことはあって、幅広い情報ルートを保持していたと考えられる。そうなると、若い頃の秀吉が物乞い同然の生活を送っていたということは、あながち否定できないと考えてよい。

■恵瓊の鋭い分析能力

 恵瓊は情勢分析にも優れており、早くから輝元ら毛利氏首脳に秀吉と戦うことの不利を説いている。そうした点を踏まえると、非常に信憑性が高い情報であると考えてよい。決して交渉の場で優位に立つ秀吉に対して、恵瓊が負け惜しみで記した一文ではないのである。

 そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたことは、有力な大名間において共通に認識されていた事実であるとみなすことができる。

■薩摩島津氏と秀吉

 秀吉の身分に対する同じような印象は、遠く九州・薩摩国までも広がっていた。天正14年(1586)1月、豊後の大友宗麟は薩摩の島津義久の攻撃を受け、窮地に陥った。

 そこで、宗麟は秀吉に泣きつくことによって、停戦に持ち込もうとした。宗麟に泣きつかれた秀吉は、義久に対して停戦を命じた。もし、島津氏が応じなければ、成敗に及ぶという厳しい内容のものだった。

■秀吉を罵倒した島津氏

 停戦を突きつけられた島津氏は、家中で種々議論を重ねるのであるが、その中で秀吉に関する次のような記述が見られる(『上井覚兼日記』。カッコ内は筆者)。

羽柴(秀吉)は、誠に由来(由緒)なき人物であると世の中でいわれている。当家(島津家)は頼朝以来変わることがない家柄である。しかるに羽柴(秀吉)へ関白とみなした返書を送ることは、笑止なことである。また、右のように由緒のない人物に関白を許すとは、何と綸言(天皇のおっしゃること)の軽いことであろうか。

 この前年(天正13年)、秀吉は関白相論に乗じて、摂関家以外で初めて関白に任じられた。あわせて、「豊臣」姓も朝廷から与えられたのである。

■泣きを見た島津氏

 島津氏は秀吉を由緒なき人物としたうえで、関白に任じられること事態が「笑止千万」という感想を持ったのである。ここでは、任命者の朝廷すら嘲笑の対象である。秀吉の出自が低いということは、遠く薩摩まで知られていたのである。

 この一文を見ればわかるように、鎌倉時代以来の名門である島津氏にとって、秀吉は「どこの馬の骨」かわからない存在であった。率直に言えば、「名門・島津家が秀吉ごときにとやかく言われる筋合いはない」というのが本音であろう。

 事実、島津氏は秀吉の停戦命令を無視した。その後、島津氏が秀吉に屈して泣きを見ることになり、ミジメな思いをするのは周知のところである。

 人を出自や身分で評価してはいけない。それは、今も昔も同じなのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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