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19年の遠回りがあったからいまがある。バレー部でも「春高」に導いた霞ヶ浦の髙橋祐二監督

上原伸一ノンフィクションライター
今年も熱戦が繰り広げられている甲子園球場(写真:イメージマート)

母校に赴任も任されたのはバレー部

現在行われている夏の甲子園(第106回全国高校野球選手権大会)。3度目の出場の茨城代表・霞ヶ浦高校は昨日(8月13日)の2回戦で、和歌山代表の名門・智辯和歌山高校を破り、春、夏通じて甲子園初勝利を挙げた。

霞ヶ浦高を2001年から率いている髙橋祐二監督の経歴は極めて稀だ。高校野球の監督には様々な「異色の経歴の持ち主」がいるが、異色中の異色とも言えるかもしれない。 

髙橋監督は霞ヶ浦高の出身。2年時からエースで四番になり、日本体育大学でも外野手としてプレーを続けた。大学では保健体育科の教員免許を取得。高校野球の指導者になるためだった。

大学卒業後の1982年に母校に赴任。当然のように、野球部の指導を任されると思っていた。ところが…配置されたのは、まさかのバレーボール部。高校野球の指導者になりたいと燃えていた青年にとっては「青天のへきれき」だったに違いない。

本格的な経験もなく、どこか指導にも身が入らなかったなか、1年、3年と時は過ぎていく。数年で野球部の指導ができるのでは、という期待もあったが、その日はなかなかやって来なかった。

当時の心境を髙橋監督に聞いたことがある。

「若かったですし、野球の指導がしたかったので、現実を受け入れ難いところはありました。別の学校で…と頭をよぎったこともあります」

やがて、髙橋監督は覚悟を決めた。腰を据えて、バレーボール部の指導に当たろう、と。一から競技を学び、どういう言葉かけをすれば、選手たちが成長するか、試行錯誤を続けた。チームは強くなり、髙橋監督はバレーボールの甲子園とも呼ばれる「春高バレー」(全日本バレーボール高等学校選手権大会)に何度も導いた。

バレーボール部での指導は19年に及んだ。髙橋監督はすっかり「バレーの人」になり、県下では名が通った指導者になっていた。

悩んだ末に野球部の監督になる

再び「青天のへきれき」が訪れたのは、2001年度の新学期を前にした春だった。学校から硬式野球部の指導をするように、と求められたのだ。全く予期せぬことであり、髙橋監督はバレーボール部の部員たちを置いて、野球部の監督になっていいものかと、悩みに悩んだという。手塩にかけたバレーボール部はこの年の「春高バレー」への出場も決めていた。

しかしながら、部活指導者も学校という枠組みのなかでは一教諭であり、組織の一員である。当然のことながら、「人事異動」には従わなければいけない。それは赴任直後から19年間、希望していた野球部ではなく、バレーボール部を指導していた髙橋監督には骨身に染みていただろう。

試合の前には入念に水がまかれているが、霞ヶ浦と智辯和歌山の2回戦も炎暑のもとで行われた
試合の前には入念に水がまかれているが、霞ヶ浦と智辯和歌山の2回戦も炎暑のもとで行われた写真:アフロ

髙橋監督は2001年4月から霞ヶ浦高野球部の監督になると、05年春に県4強に進出。07年秋、13年の春、秋は県の頂点に立った。一方で、夏は08年からの7 年間で実に5度も決勝で敗れてしまう。


「そういう運命なんですよ」という冗談交じりの言葉を聞いたこともあったが、ついに15年夏、念願の「甲子園切符」をつかみ取る。学校創立以来初の、夏の甲子園出場でもあった。

5度も夏の決勝の壁に阻まれながら、そのたびに立ち上がった裏には、野球が指導できなかったことで培った「我慢」と「忍耐」があったのかもしれない。「決勝の呪縛」を解いた髙橋監督は19年夏も甲子園出場を果たした。

「我慢」と「忍耐」。それは、智辯和歌山高戦でも垣間見えた。喫した2者連続ホームランで、試合の流れや球場のムードが相手に傾いても、延長11回タイブレークの激闘になっても、髙橋監督の表情は変わらなかった。65歳という年齢もあるが、「我慢」と「忍耐」を培ってきた人は、肝が据わっているように感じた。

「19年の遠回り」があったから、いまがある。髙橋監督はそう思っているという。

「もし、いきなり野球部の指導をしていたら、自分の経験や感覚を頼りに指導していたでしょう。ですが、バレーボールではそれができなかったので。勉強して、どうすれば、わかりやすく具体的に伝えられるか、ひたすら考えました。そのやり方は野球の指導者になってからも踏襲してますし、バレーボールの顧問をしたことで間違いなく「指導の引き出し」は増えました」

髙橋監督は投手指導にも定評があり、昨年のドラフト3位で千葉ロッテに入団した木村優人以外にも、綾部翔(元横浜DeNA)、根本薫(元オリックス、プロ入り後に外野手に転向)、遠藤淳志(広島)、鈴木寛人(元広島)、赤羽蓮(福岡ソフトバンク)の5人の投手をプロ(NPB)に送り込んでいる。

甲子園初勝利も、こうしたプロ投手の輩出も、「19年の遠回り」が成し得たものだった。

ノンフィクションライター

Shinichi Uehara/1962年東京生まれ。外資系スポーツメーカーに8年間在籍後、PR代理店を経て、2001年からフリーランスのライターになる。これまで活動のメインとする野球では、アマチュア野球のカテゴリーを幅広く取材。現在はベースボール・マガジン社の「週刊ベースボール」、「大学野球」、「高校野球マガジン」などの専門誌の他、Webメディアでは朝日新聞「4years.」、「NumberWeb」、「スポーツナビ」、「現代ビジネス」などに寄稿している。

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