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【深掘り「どうする家康」】桶狭間合戦後、今川氏真は松平元康を見殺しにしたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、今川氏真が松平元康を見殺しにしたかのように見えたが、いかなる事情があったのか深掘りすることにしよう。

 永禄3年(1560)5月19日、今川氏真の父・義元は、桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。義元が一番びっくりしただだろうが、氏真はもっと驚いたに違いない。急なことではあったが、今川家の家督は氏真が引き継ぐことになった。

 大河ドラマの中では、松平元康が今川方に残留すべきか、あるいは織田方に寝返るか逡巡していた。しかし、最終的には伯父の水野信元の助言に従って、織田方に走った。氏真は大いに怒り狂ったが、すべてはあとの祭りだったといえよう。

 大河ドラマを改めて確認すると、氏真は織田方と対峙する元康に援軍すら送らず、見殺しにしたような形になっていた。元康配下の三河衆たちは、「今川方から離れ、織田方に味方してほしい」と懇願するありさまだった。なぜ、氏真は元康に配慮を見せなかったのか。

 結論を先に言えば、氏真には元康を支援するだけのゆとりがなかったのである。そもそも義元の戦死など想定しておらず、氏真は急に今川家の当主となった。しかも、今川家の重臣や配下の国衆が桶狭間の戦いで戦死し、家臣らには不満が高まっていた。

 また、三河国内の動揺を鎮めるため、国衆らに知行安堵を行うが、すでに三河の国衆は元康に味方し、今川方から離反する者も少なくなかった。こうして今川氏は、三河国内への影響力を徐々に失い、元康は自立していったのだ。

 ほかにも問題があった。同じ頃、越後の上杉謙信が関東管領の上杉憲政を奉じて、関東に出兵するとの風説が流れた。謙信の動きに反応したのが、今川氏と同盟していた、武田信玄と北条氏康だった。氏真もまた、謙信に備える必要があった。

 つまり、元康としては、氏真が信頼できるパートナーとはみなせなかった。元康が岡崎を中心にして自立化を図ったとき、もっとも信頼できたのが織田信長だった。別に氏真の威勢が急速に衰えたわけではないが、その将来性を見限ったといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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