【河内長野市】池がないのに中村池公園!調べてみると河内長野市史から中村池の痕跡と埋められた経緯が判明
河内長野の市は、約7割が森林で緑豊かな印象がありますが、河内長野駅の近くなど、古くから町が形成されているところでは、そんなに緑が多いという印象はありません。
そんな中、河内長野駅から徒歩5・6分の西代町にある中村池公園は、周りが町に囲まれた中でも緑のある憩いの公園という印象です。
西代町は古野町の隣にあり、河内長野駅から比較的近いところにあって、駅から十分徒歩圏内です。
ここで、改めて中村池公園を紹介しようと立ち寄ることにしました。
球技ができるような砂地のグラウンドがあるかと思えば、
このように子供が遊べる遊具も置いてありました。
また散歩の途中で休憩できる東屋もありますね。
ところがここでひとつ疑問に思ったことがあるのです。
それは、中村池公園と名前がついているのに、公園内になぜか池がないことです。
例えば寺ヶ池公園には大きな寺ヶ池があり、その周りが公園として整備されています。
寺ヶ池公園だけではありません、稲田池にも稲田池公園と呼ばれる小さな公園があり、ベンチから池の様子が眺められます。
しかし、中村池公園には中村池がありません。これはどういう事でしょうか?
地図で中村池公園を見ても、水辺らしいものが見当たりません。ただ名前からしてかつてここには中村池という名前の池があったのではという気がします。
では中村池公園には、かつて中村池というのが本当にあったのでしょうか?
今回は図書館で調べてみることにしました。河内長野の都市計画公園の一覧をみると中村池公園がのってあります。
これによると計画決定のところに1957(昭和32)年4月9日と書いてあり、開設年度が1958(昭和33)年になっています。
つまり1957(昭和32)年に計画があって翌年に公園が完成したということですね。公園になる前には池(中村池)になっていたのでしょうか?
次に同じく図書館で河内長野市史第3巻 本文編 近現代を見てみました。中村池の記述は672、1056、1083ページに載っているようです。
1957(昭和32)年に公園が計画された前の状態です。中村池のことが記述されているか確認してみました。
672ページを見ると1934(昭和9)年から1935(昭和10)年ごろの記述で中村池の名前が出てきます。
との記述があり、1934(昭和9)年のころには中村池があったことがわかります。
ちなみにここで出てくる幼稚園は、現在の清教学園幼稚園です。
めぐみ幼稚園という名前で当時の長野町に初めて開園した幼稚園なのだそうで、開園当時は現在の中村池公園の西側にあったということのようです。
次に1056ページを見るとちょうど長野町と周辺の村が合併して河内長野市が誕生する段階の記述でした。
新しい市ができることに対する新市建設計画書の中に、中村池の記述を見つけました。
一、中村池附近の児童小公園化、大師山、岩湧山、烏帽子山の公園化
つまり河内長野市誕生の計画時に中村池を埋め立てて公園にしようという計画が含まれていたんですね。
最後は1083ページです。ここでは1954(昭和29)年に河内長野市が誕生して祝賀式が行われた内容が記述されています。
この時点ではまだ中村池が存在していて、放水訓練が行われたと書いてあります。この後昭和33年までの4年間で池が埋め立てられ公園として整備したという事でしょう。
というわけで中村池公園に今は池がありませんが、かつて中村池が存在し、それが河内長野市ができた計画で公園化することが決まり、公園として整備されたという事になります。
というわけで中村池のことと中村池公園ができるまでの流れを河内長野市史で調べてみました。
こうして改めて中村公園を見ながら、町の中にあるごく普通の児童公園にも、実は深い歴史があるんだということを知ることができました。
中村池公園
住所:大阪府河内長野市西代町7-3
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩5・6分
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