【戦国こぼれ話】大坂の陣で豊臣方が敗北したのは、無能な家臣・大野治長の責任だったのか
コロナ禍において、大阪のあるホテルでは、大阪城が見える部屋をテレワーク用に準備しているという。大坂の陣で豊臣方は敗北したが、敗因は無能な家臣・大野治長にあったという。それは事実なのか。
※以下、「大阪」は前近代における表記の「大坂」で統一。
■大野治長などのこと
大野治長は生年が不詳、通称を修理亮といった。治長の母は大蔵卿局であり、豊臣秀吉の側室・淀殿の乳母でもあった。慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件の際には、徳川家康のもとを訪れていた女性でもある。
こうした関係から、治長は秀吉の馬廻として仕えたといわれている。当時は1万石を領し、従五位下・侍従に叙任されていた。
治房は治長の弟であるが、生年不詳で経歴もあまりわかっていない。豊臣秀頼に仕えたのはたしかであり、知行として1300石を与えられていたという。なお、治長には治房のほかに、治胤、治純という弟がいた。
秀吉の死後、治長は秀頼に仕えて、警護二番衆の隊長となる。しかし、慶長4年(1599)9月、大坂城内で浅野長政、土方雄久らと徳川家康暗殺を企て、未遂に終わった。
この容疑で治長は捕らえられ、下野国結城(茨城県結城市)に追放されたのである。この時点で、治長の将来は断たれたかのように見えた。
翌年、石田三成らが挙兵すると、治長は家康から赦免され、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では東軍に属して軍功を挙げた。合戦後は再び豊臣家に仕え、秀頼を補佐するようになり、重臣の1人に数えられた。
慶長19年(1614)に起こった方広寺鐘銘事件によって、片桐且元が大坂城を退去すると、治長は織田有楽長益とともに、豊臣家の中心的人物として秀頼を支えることになった。相前後して豊臣家を守るべく、治長は難しい政局運営を担うことになる。
■治長にまつわる悪評
ところで、治長には、後世にわたって悪評がつきまとった。たとえば、大坂の陣に際して、治長は真田信繁ら牢人衆らの意見を取り入れず、徳川方を叩く好機を何度も逃したというものである。
それゆえ牢人衆は徳川家を打ち負かすチャンスを失ったので、何度も地団駄を踏んだという。こうして治長は、豊臣家が敗北したA級戦犯に仕立て上げられた印象が強い。
それだけではない。治長と淀殿との間には、絶えずスキャンダルが噂された。たとえば、慶長4年(1599)の段階において、治長は淀殿と密通していることが風聞となっている(『萩藩閥閲録』)。
同趣旨の話は、姜沆の『看羊録』や『多聞院日記』にも記されており、相当な話題になっていたことがわかる。 また、江戸時代に成立した『明良洪範』には、秀頼が治長と淀殿との間に誕生した子であると書かれている。
それらの記述は治長と淀殿との密通の根拠となり、後世に秀頼が秀吉の実子ではなかったと広まるようになった。秀頼が秀吉と淀殿との実子であるか否かは、現在も疑問視する向きがある。
■一変した評価
ところが、現在、治長の評価は一変しているのではないだろうか。治長は豊臣家存続のために腐心しており、徳川家との講和にも尽力した。
当時、京都所司代を務めた板倉勝重は、自らの書状の中で、治長が不屈の精神によって事を図り、秀頼の為なら悪事を働くことも辞さなかったと記している。悪事と記されているものの、それは徳川方から見たものであり、豊臣方からすれば、そうでないことはたしかである。
大坂冬の陣で、治長は徳川方との講和に織田有楽とともに尽力し、締結に際しては子の武蔵守を徳川方に供出した。しかし、盟友である織田有楽は、講和後に大坂城を退城し、治長は苦境に立たされる。やがて大坂城の堀などが埋め立てられ、その堅固な防御体制は失われることになった。
大坂夏の陣がはじまると、治長は秀頼・淀殿の助命に奔走する。しかし、辛うじて秀頼の妻・千姫を逃がすだけに止まり、慶長20年(1615)5月8日に秀頼らとともに大坂城で運命をともにした。
弟・治房は主戦派であり、講和を主張する兄・治長とたびたび不和になったという。夏の陣では筒井氏の居城・大和郡山城を陥れた。それだけでなく、弟・治胤(道犬)に命じて和泉国堺へ兵を遣わし、市街を焼き払わせた。
その後、河内方面に軍を進めたが、樫井の戦いで浅野氏の軍勢に敗北を喫した。五月七日、治房は大坂城の落城寸前に脱出したが、京都市中で捕らえられ斬首されたのである。
治長・治房ともに茶人の古田織部と親交があり、風雅な人物であったという。治長らの評価は、今後改められるべきなのかもしれない。