【戦国こぼれ話】『日本史』の著者として有名な宣教師のルイス・フロイスとは、どんな人物だったのか
近年の戦国・織豊時代の研究を賑わしているのは、ポルトガルからやって来た宣教師のルイス・フロイスである。その著作『日本史』は大いに注目されている。フロイスとは、どんな人物なのだろうか。
■ルイス・フロイスとは
世界が大航海時代の最盛期であった十六世紀末期頃、日本はちょうど戦国時代の終焉を迎えようとしていた。永禄6年(1563)、ルイス・フロイスはカトリックの男子修道会のイエズス会から派遣され、肥前横瀬浦(長崎県西海市)に上陸した。
以降、フロイスは日本の数多くの要人と面会し、主著である『日本史』を著した。フロイスとは、いかなる人物なのだろうか。
フロイスはポルトガルのリスボンの出身で、1532年に誕生した。イエズス会には、16歳で入った。やがて、フロイスはインドのゴアに渡航し、日本に渡航経験のあるザビエルの影響を受けた。
その後、フロイスは司祭に昇進し、インド管区長秘書を務めるなど順調に出世する。その背景にあったのは、類まれなる語学力と文才にあったといわれている。
■日本に渡ったフロイス
永禄6年(1563)に日本に渡ったフロイスは、現地でフェルナンデス修道士から、日本の習俗や日本語を学び、一通りマスターした。
翌年、フロイスは室町幕府13代将軍・足利義輝に面会する。しかし、永禄8年(1565)に義輝が暗殺されると、フロイスは堺(大阪府堺市)へと逃れた。
永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を推戴し上洛すると、その翌年にフロイスは再度上洛を果たした。信長は大変好奇心が強く、フロイスの話に熱心に耳を傾けた。以降、フロイスは岐阜(岐阜市)、安土(滋賀県近江八幡市)などで信長と親交を深めたのである。
■布教するフロイス
一方、フロイスはキリスト教の布教に努め、大友宗麟などのキリシタン大名をはじめ、一般庶民にまで熱心にキリスト教の教義を説いた。
天正7年(1579)、日本巡察使のヴァリニャーノが来日すると通訳を務め、その3年後には日本副管区長付司祭として『日本年報』を主に執筆するようになった。
翌天正11年(1583)からは、ザビエルの来日以後の布教史をまとめた『日本史』の執筆を命じられたのである。これがのちに注目される書になった。
『日本史』は全3巻から成っており(一巻は断片的に残存)、天文18年(1549)から文禄3年(1594)までの期間を記録している。
■『日本史』とは
フロイスは『日本史』の執筆にすべてを捧げ、ときには1日に10数時間も机に向かうこともあった。フロイスは大変な記録魔だったので、その叙述は極めて精密で大部になった。
それゆえ検閲者のヴァリニャーノは短縮を求めたが、フロイスは拒否。結局、原稿はヴァリニャーノの判断により本国に届けられず、マカオの修道会に埋もれたままとなった。その後、原本は1835年に火災で焼失し、現存しているのは写本だけである。
『日本史』の史料的な評価はさまざまであるが、好奇心旺盛なフロイスは戦国武将だけでなく、多くの出来事に関心を持って書き留めたため、同時代の一級史料として評価されている。フロイスの情報収集能力と観察眼は、群を抜いて優れていたといえる。
一方、宣教師としての偏見や日本の習俗に対する誤解などもあり、慎重に扱う必要があるとの指摘もなされている。いずれにしても、同時代の日本を知るうえで、貴重な史料であるのは間違いない。