紫式部のきょうだいの藤原惟規の最期にまつわるエピソードとは?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原惟規が父為時の任地の越後に向かう途中で病に罹り、間もなく亡くなった。惟規の最期には、有名なエピソードがあるので、紹介することにしよう。
惟規は、為時の子として誕生した。紫式部は、きょうだいである。幼い頃、惟規は為時から漢籍を学んでいたが、なかなか覚えが悪かった。しかし、紫式部はすぐに暗唱したので、父の為時が「紫式部が男だったら」と嘆息した逸話が残っている。
成長した惟規は大学寮の文章生になり、紀伝道(文章道)を学んだ。紀伝道とは、中国の詩文や歴史書を学ぶ課程のことである。惟規は漢籍が苦手だったと先述したが、それは『紫式部日記』に書かれたことなので、実際は得意だったのかもしれない。
その後、惟規は少内記に任じられた。内記とは中務省に属し、詔勅・宣命・位記の起草のほか、天皇の行動を記録するのが職務だった。寛弘8年(1011)、惟規は蔵人などを経て、念願だった従五位下に叙された。喜びも一入だったに違いない。
一方で、為時は長徳2年(996)に従五位下・越前守に叙任され、任地に向かったが、その後はなかなか官職に恵まれなかった。寛弘8年(1011)、惟規が従五位下に叙された年に、為時は晴れて越後守になり、任地に向かったのである。
惟規は為時に同行して越後に向かったが、その途中で病に罹った。目的地に到着したとき、すでに惟規は虫の息だったという。為時は惟規が生きているうちに、出家させようとした。僧侶にさせるのではなく、極楽浄土に行かせるためである。
惟規は意識がもうろうとする中で、手を動かしたので、為時は何かを書きたいのだと思い、筆と紙を手渡した。すると惟規は、「みやこには 恋しき人の あまたあれば なほこのたびは いかむとぞ思ふ」という辞世を認めたのである。
しかし、惟規は最後の「ふ」を書き終えることなく絶命したので、為時が書き足したと伝わっている。惟規が詠んだ辞世は、勅撰集の『後拾遺和歌集』に収録された。