批判にさらされた『週刊ポスト』嫌韓特集は結局、週刊誌界でどう総括されたのか
9月2日発売の『週刊ポスト』9月13日号の特集「韓国なんて要らない」が大きな批判にさらされ謝罪に追い込まれたが、その後、当の『週刊ポスト』を含め、週刊誌界はこれをどう受け止めたのだろうか。
『サンデー毎日』の厳しい『週刊ポスト』批判
同じ週刊誌の中で『週刊ポスト』を大きく批判する特集を掲げたのは『サンデー毎日』9月29日号だった。
「『週刊ポスト』編集部に告ぐ!」という思想家・内田樹さんの署名記事を巻頭に掲げたのだが、ズバリこう書いている。
「私が『週刊ポスト』にまず申し上げたいのは『あなたがたには出版人としての矜持はないのか?』ということである」
他の週刊誌はどうかと言えば、『フラッシュ』9月24日号が「断韓炎上『週刊ポスト』に高齢者が群がっている!」、『週刊文春』9月19日号が「嫌いだけど好きな韓国」という記事を掲載した。『サンデー毎日』ほどではないが、『週刊ポスト』にやや批判的なスタンスだ。
当の『週刊ポスト』は9月20・27日号に謝罪文を載せたものの「誤解を広めかねず、配慮に欠けておりました」という曖昧なもの。しかも同じ号に「韓国の『反日』を膨らませた日本の『親韓政治家』たち」という嫌韓ふうの特集を掲載していた。たぶん騒動が起こる前から予定していたのをそのまま載せたのだろうが、同誌は居直っているのではないかと受け止めた人もいただろう。
『週刊ポスト』自身にも同誌批判記事が掲載された
一方で同誌は、10月4日号に「週刊ポストの『韓国なんて要らない』特集 ここが問題点だ」という作家の葉真中顕さんの署名原稿を掲載した。葉真中さんは事件当初から同誌を強く批判した人だが、この記事も同誌に厳しい内容だ。
「仮に本気で『誤解を広めかねず、配慮に欠けて』いたと思うのなら、当然、回収すべきだった。しかし、しなかった。これはつまり『誤解を広めかねず、配慮に欠けて』いるが、結果的に広まってしまっても構わないと宣言しているに等しい。到底反省しているようには思えない」
「謝罪をして非を認めているのであれば、まず何はなくてもやるべきは、なぜあのような記事が出たかの検証と、再発防止の取り組みだろう。もちろんそれは第三者の目を入れた厳しいものでなければならない。
私が知る限り、当初はポストの内部にも検証を求める声があった。しかし現時点でポストは検証記事を載せるつもりはないようだ。
そして恐ろしいことに、なぜ検証を拒むのか、その理由を、それなりに肩書のある担当編集者から聞いても、全くわからないのである」
ある意味では、この厳しい批判記事を載せること自体が同誌としては反省の意思表示なのかもしれない。ただそうだとしても、誌面に編集部の見解が全く掲載されていないのは理解しがたい。
そしてその翌週、9月30日に発売された10月11日号を見ると、厳しい批判をして自分は納得していないと表明した葉真中さんの「作家たちのA to Z」の原稿が掲載されていた。嫌韓問題には何の言及もない。ひとつ変わったのは欄外の説明文が「この連載は~の作家5人によるリレー連載です。」とあること。事件の前まではこれは6人の作家による連載だった。その6人のうちの1人だった深沢潮さんはこの事件で『週刊ポスト』に抗議して連載を降りたのだった。
葉真中さんも納得していないと前号で書いていたのだが、とりあえず連載を続けることで話がついたらしい。恐らく、前号での厳しい同誌批判は、連載を続けることの条件として掲載したのだろう。なぜならば前号の葉真中さんの厳しい批判記事の欄外にこう書かれていたからだ。
「今号の『作家たちのAtoZ』は休載とし、次号の葉真中氏の回より再開します」
釈然としないのだが、恐らく『ポスト』編集部としては、何か発言すればまた波風立たせるだけだから何も表明しないで事が収まるのを待つという方針なのだろう。
そもそも曖昧だった『週刊ポスト』の謝罪
そもそも同誌の「謝罪文」(9月2日付)自体が曖昧なものだった。
《週刊ポスト9月13日号掲載の特集『韓国なんて要らない!』は、混迷する日韓関係について様々な観点からシミュレーションしたものですが、多くのご意見、ご批判をいただきました。なかでも、『怒りを抑えられない「韓国人という病理」』記事に関しては、韓国で発表・報道された論文を基にしたものとはいえ、誤解を広めかねず、配慮に欠けておりました。お詫びするとともに、他のご意見と合わせ、真摯に受け止めて参ります。(『週刊ポスト』編集部)》
問題の9月13日号の発売日当日に謝罪文はWEBサイト「NEWS ポストセブン」に掲載された。翌週号の誌面にも同じものが掲載されたのだが、その号を待たずに問題の号の発売日に謝罪文を公表するという、ある意味で迅速ともいえる対応は、作家らの反発が拡大していったのを見て早めに火消しをせねばならないと考えたのだろう。
謝罪文の文面を見ればわかるように、謝るにしても限定的で、誤解を与えたというものだ。そうやって抗議が拡大するのを防ごうとしたのだろうが、謝罪文を正式に載せたことで新聞などが一斉に報じるところとなり、火が燃え広がるのを防ぐことはできなかった。それゆえ途中からは、いっさいコメントや見解表明はしないという方針に転じたようだ。ただ嵐が過ぎるのを待つという方針だ。
『週刊ポスト』に批判が吹き荒れた背景とは
さて、この問題でなぜ『週刊ポスト』にあれほどの非難が殺到したかと言えば、テレビや雑誌が嫌韓を煽っている状況に多くの人が疑問を感じ始めたそのタイミングだったからだろう。
実は、今回あまり言及されていないのだが、『週刊ポスト』は炎上する2カ月前の7月から嫌韓特集とでもいうべきキャンペーンを続けていた。8月2日号は「『日韓断交』で韓国経済は大崩壊!」と題して、韓国では盛んに不買運動を呼号しているが、断交したら打撃を受けるのは韓国の方だ、という趣旨。今回騒動になった「韓国なんて要らない」とよく似た特集だ。8月9日号には「反響囂々(ごうごう)、第2弾」と表紙に掲げているから売れ行きにもつながったらしい。
それで気をよくして次々とキャンペーンを続けたのだろう。8月9日号には「韓国が繰り出す『嘘』『誇張』『妄想』を完全論破する『日本人の正論』」という特集を掲げている。韓国での反日運動の映像を連日、見せつけられてナショナリズムを高揚させていた日本人の空気を読んだのかもしれない。
そして問題の9月2日発売の9月13日号だ。「『嫌韓』ではなく『断韓』だ/厄介な隣人にサヨウナラ/韓国なんて要らない」と表紙に大書した特集が、激しい批判にさらされ、謝罪に追い込まれたわけだ。もしかすると編集部は、これまでもやっていたのになぜ?という気持ちだったかもしれない。
なぜその号がそんなに抗議を受けたかというと、幾つか考えられる要因がある。騒動の経緯は新聞・テレビで報道されているが簡単にたどっておこう。第1の要因は、表紙の大見出しの脇に「『10人に1人は治療が必要』(大韓神経精神医学会)――怒りを抑制できない『韓国人という病理』」という見出しも掲げていたことだ。「ヘイト」「差別」だという批判を浴びて同誌が謝罪した大きな要因のひとつは、この記事と見出しでもあった。
発売当日に謝罪文を出すという対応のきっかけになったのは作家らがその朝からSNSで批判を立ち上げたことだ。特に拡散されて話題になったのは以下のようなものだ。
《深沢潮 わたし、深沢潮は、週刊ポストにて、作家たちのA to Zという、作家仲間6人でリレーエッセイを執筆しています。しかしながら、このたびの記事が差別扇動であることが見過ごせず、リレーエッセイをお休みすることにしました。すでに原稿を渡してある分については掲載されると思いますが、以降は、深沢潮は、抜けさせていただきます。ほかの執筆陣の皆様には了解を得ています。》
《内田樹 というわけで僕は今後小学館の仕事はしないことにしました。幻冬舎に続いて二つ目。こんな日本では、これから先「仕事をしない出版社」がどんどん増えると思いますけど、いいんです。俗情に阿らないと財政的に立ち行かないという出版社なんかとは縁が切れても。》
《葉真中顕 ポスト見本誌見て唖然とした。持ち回りとはいえ連載持ってるのが恥ずかしい。表紙や新聞広告に酷い見出し踊らせてるけど、日本には韓国人や韓国にルーツある人もいっぱいいるんだよ。子供だっているんだよ。中吊り広告やコンビニでこれ見たらどういう気持ちになると思ってんだよ? ふざけんなよ。》
裏目に出たド派手な広告
執筆陣からの批判、しかも執筆拒否を伴うものだっただけに注目されたのだろう。あっという間に拡散した。そして多くの『週刊ポスト』批判のコメントが書き込まれたのだが、まだその時点では『ポスト』の記事自体は読んでおらず、新聞広告やネットに上がった同誌の表紙などを見て反応した人も多かったようだ。その号に対して抗議が殺到した要因の第2番目は、同誌の新聞広告がやたら目立つものだったことだろう。実際、発売日の2日から多くの人がSNSで疑問を表明し始めたのだが、新聞広告を見て疑問を感じたというものも多かった。
その広告は「韓国なんて要らない!」の見出しがドーンという感じで大書されたもので、相当目立っていた。葉真中さんは、こういう広告を掲載した新聞の掲載責任はどうなのだという言及もしていたほどだ。
そうした作家らの批判の声がどんどん拡散したのは、前述したようにそのころ日本を覆っていたナショナリズムの空気や、それに便乗した嫌韓特集に疑問を感じた人が拡大していたためだろう。
批判の声を新聞などが大きく報じたのもそのためだ。朝日新聞は3日付で「週刊ポスト謝罪、抜け落ちる議論 『断韓』特集に作家は」という記事を掲載。毎日新聞は記事のほかに4日付社説で「週刊ポストの特集 嫌韓におもねるさもしさ」と批判を展開。東京新聞も4日付社説で「韓国特集で謝罪 批判にも節度が必要だ」と書いたほか、見開きの特報面で大きく取り上げた。見出しはこうだ。
「炎上商法? 売れればいいのか 分断を助長 メディアの役割か」「週刊ポスト 『差別的』韓国特集の波紋 『貧すれば鈍する』 出版不況で嫌韓過激化」「あふれるヘイト記事『冷静になって』」
テレビでは、5日にテレビ朝日の朝の情報番組「羽鳥慎一モーニングショー」が玉川徹さんの「そもそも総研」コーナーで取り上げた。また8日のTBS「サンデーモーニング」も「風をよむ」のコーナーで大きく取り上げた。ちなみにその「サンデーモーニング」で『週刊ポスト』を取り巻く出版界の状況などをコメントしたのは私だ。
5日夕方には小学館本社前に150人ほどの市民がSNSでの呼びかけに呼応して集まり、「ヘイト本で飯を喰うな!」「憎しみ煽って稼ぐな」などと書かれたプラカードを掲げて抗議した。
昨年、休刊に追い込まれた『新潮45』の騒動にあまりにも似ているのが気になるが、特に小学館は学年別学習誌や年鑑など、子どもたちへの教育・学習に関わる出版物が多いだけに、小学館ともあろうものが恥を知れ!という怒りもあったのだろう。
ちょっと気になるのは、『新潮45』騒動でもそうだったが、今回の『週刊ポスト』でも、賛成ないし反対を唱えている人の中で原文を読んでいない人が多いように見えることだ。一般市民はともかくメディアに関わる人間が「読まずに批判する」ことは良いことではないのだが、ここで今回問題になった特集について少し紹介しておこう。
『週刊ポスト』9月13日号の「韓国なんて要らない」という特集は、韓国の「反日」に対して、それだったら断交すればよいじゃないか、困るのは韓国の方だ、と訴えた企画だ。断交した場合どうなるか、軍事、経済、スポーツ、観光などとジャンル別にシミュレートしている。前述したように嫌韓キャンペーン第1弾の8月2日号でも「『日韓断交』で韓国経済は大崩壊!」という同じ趣旨の企画を掲げていたが、回を重ねるうちに表現などはよりセンセーショナルになったようだ。
今回はそれに加えて「PART2」として「怒りを抑えられない『韓国人という病理』」という記事があった。大韓神経精神医学会資料を紹介する形で「10人に1人は治療が必要」などと韓国国民を非難していた。特集全体として、韓国の反日運動に対して「売り言葉に買い言葉」とばかり憎悪をぶつけた企画なのだが、「PART2」の韓国人の国民性についてのヘイトまがいの記述は、いくら何でも……と反発した人が多かったようだ。
とがったことをやらないと地盤沈下するという焦り
『週刊ポスト』は9月9日発売の9月20・27日号で、ウェブサイトと同じ謝罪文を誌面に掲載した。でも前述したように、一方でその号も「韓国の『反日』を膨らませた日本の『親韓政治家』たち」と表紙にぶちあげていた。ただ「真の『日韓善隣外交』を考える」など多少配慮された表現も目についた。
もともと『週刊ポスト』が少し突出したキャンペーンに踏み切ろうと考えたのは、週刊誌全体が地盤沈下し部数を落とし続ける中で、いったいどこに活路を見出すべきかという編集現場の悩みがあったからだと思う。このところ、「死後の手続き」とか、相続、健康情報など高齢化した読者に誌面をシフトさせていった週刊誌だが、長期的に考えて今後の方向性をどうすべきか、総合週刊誌全体が活路を見いだせないでいる。
そこで思い切って右派論壇誌のような方向へ舵を切ってみたのがこの夏の『週刊ポスト』の一連の特集だろうが、その方向性こそまさに昨年、『新潮45』が試みたのと同じものだった。日本の言論市場は、まだその動きに対して批判が起こるようなバランスを保持している。今の日本社会の空気がこのまま高じていくと、あるいは今回の『週刊ポスト』に対して起きたような批判が「非国民」と指弾されて排除されるような状況に陥りかねないのだが、幸いなことにまだそこまでは至っていない。
今回の『週刊ポスト』事件は、日韓双方にナショナリズムが台頭していることを背景にしているのだが、同時にその日韓対立に対して、政府のキャンペーンに乗ってしまうのでなく、危惧を覚えている日本人も少なくない。そうした日本社会の複雑な空気を反映したものといえよう。
ある意味興味深かった『ニューズウイーク日本版』
さてこの事件の後、他の週刊誌がどういう対応をとっているかは前述したが、ある意味で興味深かったのが『ニューズウイーク日本版』9月24日号だ。特集タイトルは「日本と韓国 悪いのはどちらか」。第三者を装ったアメリカらしい問題の立て方だが、その特集の1本、日本で育った元朝鮮籍の映画監督の署名記事の冒頭が興味深かった。
韓国の行きつけの食堂のおかみさんがテレビのニュースを見て「韓国と日本の政府がもめているときこそ、民間人同士が仲良くするように諭すのがテレビの役目じゃないか。あおるようなインタビューばっかり見せて」と怒ったというエピソードだ。
メディアがナショナリズムを煽ることに対して、市民の中に疑問や危惧が生じているのは日韓いずれも同じだというわけだ。
ともあれ国をあげてナショナリズムが高揚するという雰囲気は相当に危険なことで、日韓いずれにおいてもメディアがその中でどういうスタンスをとるかは言極めて重要だ。問われているのはメディア自身だと言える。